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第一話 ボージョレ・ヌーボー

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  1-1 御堂筋の銀杏もすっかり黄色に色づき、すでに街のいたるところに冬支度の気配が感じられるようになった。 景気の方は一向に回復する兆しを見せないままもう五年目に入り、田中の業界でもその影響を受けないわけにはいかなかった。 それにもかかわらず、なぜか一人田中だけがそんな世相など何処吹く風とばかり元気そのもので、上司をはじめとして同僚までもが田中の元気の秘密を量りかねていた。 おまけに田中の営業成績は社内でも群を抜いていることが、同僚の間でやっかみの元にもなっているほどで、決して一生懸命にやっているとは思えないその勤務態度が、ますます他の社員たちの猜疑心をあおることにつながった。 しかし、男子社員達に対する不人気とは裏腹に、女子社員に対する人気は抜群で、そのチャランポランに見える勤務態度ですら、人間的であるとか、ユトリがあるとか、男らしいとかの評価があり、営業成績の優秀さと相まって、同僚たちのやっかみを募らせるのだった。 夕方五時のチャイムが鳴ると、田中はいつものように机の回りを片付け、分厚い黒いトランクを持つと、「オイ、オイ、役所と違うぞ!」と言う上司の声を背中に聞き流し、さっさと会社を後にした。 「田中です」 ブザーを押して田中が入っていったのは阿波座にある高級マンションの一室だった。 「田中さん、待ってたんやから」 「すんません、おそうなってしもて」 田中が言い訳する時間も惜しいとばかり女がからみついてきて、綺麗な形をした唇で田中の口をふさごうとして、 「あっ痛い」 「あっ、すんません、もうヒゲがのびてしもうて」 「いいんよ、それが好きなんやから。シャワー、それともお風呂?」 「もう、ママは入らはったんですか?」 「アホなこと言わんといてヨ。待ってたんやから。あんたと入ろ思て」 女はシルクのロングスリップを着けているだけで乳首と脚の間とがかすかに透けて見えている。田中は、丸っこい指先で乳首をつまみ、 「ママのこれ、はよ、食べたいなぁ」 「アホ、後で」 と、田中の手の甲をつねり上げる。 「あいたたた、痛いがな」 「はよ、シャワーしょ」 「そうしましょ」 田中は女の腰に手を当てると、勝手知ったる足取りで廊下を奥に進み、寝室のドアを開け、窓際のカウチの上に洋服を脱ぎ始めた。 「あたしが脱がしたげる」 と言うと、女は苛立ったような仕種でズボンのベルトに手をか...

第二話 ドン・ペリニヨン

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  2-1 道頓堀川を東に辿り、北へと向きを変えると川の名前も横堀川と変わる。その横堀川が大川へとつながる少し手前にコクサイホテルがあるが、そこからそう遠くない場所にバー「ワンナイト」という店がある。そして、その店の奥にはもう一つ、ドアで仕切られた部屋があり、クラブ「千夜」と呼ばれている。 「ワンナイト」とは、一夜という意味だから、両方合わせて千夜一夜という意味になるのだが、現在すでに三代目になるというこの店は、最初のオーナーがつけた名前のまま営業しているのだということだ。 初代のオーナーはすでに亡くなったとかで、どんな意図でそんな名前をつけたのか、正確に言える客は少なくなってしまった。聞くところによると、代々息子がマスターを務め、初代は童話作家としても名の通った人だったというのだが、そうなると、ますますこの店名は似つかわしくない。 ある古くからの客によると、アラビアンナイトのように、夢のある店だったというのだが、それが、どんな夢のある店だったのかは知る術もない。ただ、昔は、美しい女たちの溜まり場になっておりその若い女たちを巡って、客たちが争うことがよくあったということだった。 それは今も昔も同じことで、バー「ワンナイト」では時々目も覚めるような美人がグラスを傾けているのを目撃することがある。 客たちといえば、身なりの卑しからぬ割りには目に陰惨さをただよわせていたり、荒涼とした砂漠を背中に背負っていたりするかと思えば、ラフだが仕立てのいい洋服に身を包み、飄々とした風情でショットのスコッチをあおっていたりするのだ。しかもどの客も何やら一家言ありそうで、互いに張りめぐらせた緊張感という糸がレーザー光線のように飛び交っているのが見えるかのようだ。 そのせいかどうか、マスターも無口で、客の注文の酒を作る以外はグラスを磨いているか、使い込まれて黒光りのするテーブルを拭いているかで、自分から客たちに話しかけるようなことは決してなかった。 客の一人が話し始めるとそれを合図に、会話がペアとなり、やがて交錯し始める。そして、それら常連の中からマスターの眼鏡にかなった客だけが、マスターから奥のクラブ「千夜」のドアを示されるのだった。 田中が入っていくと、マスターはすぐに奥のドアを目で示した。それに応えて田中がバーを素通りして奥に向かって歩き始めると、カウンターの客たちから鋭い視...

第三話 キール・ロワイヤル

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  3-1 朝晩の寒さがそろそろ本格化しはじめ、郊外では霜柱を踏んでの出勤が増える頃になった。 それでも、かじかんでしまった体も心も、満員電車から会社に向かう頃にはほぐれ、昼食時にもなれば、ルーティーン・ワークのもたらす治癒力のお陰で自分を取り戻すことができる。 ところが、月曜日の早朝ミーティングとなると話は別である。 このところの不景気で、田中の会社でも営業部の 全体ミーティングが毎週のように行われていた。まずは販売成績の発表があり、次に販売目標、そして、そのための施策と続くのだが、いつの週も最 後に唱和する「頑張るぞ!」の声に象徴されるように、何の具体的実行目標も示されないまま、第二次大戦の頃の竹槍攻撃さながらの無策が繰り返されるばかりだった。 昼までの予定の会議ですら、白熱することのない まま、二時間もたたない内に終わってしまった。会議室からぞろぞろと溢れでてきた営業マンたちは書類を机の上に放り出すと早飯へと繰り出してい く。 田中が自分の机に腰を下ろすと同時に、電話が鳴った。 「田中さん、どないしてんのん、今日は」 阿波座のママの声だ。 「いやぁ、もう、朝から会議で大変ですわ」 「ああそう、サラリーマンらしいこと、ちょっとはしてるんやねぇ」 「そらそうですわ。僕かて、会議くらいは出ますがな」 「あんた、キタのベルサイユ行ったんやて?」 「えーっ、ママ、あの店、知ってはるんですか。か なわんなぁ」 「そらそうや、うちは、業界のゴッドマザーや言われてるんやから」 「はははは、参りました。でも、あの店にはほんまにさすがの一郎君もびっくりでしたわ」 「そうやろな。でも、あのママ、あんたのこと気に入ったみたいやで。そらそうと、今日は外回り違うの」 「すんません、今日は、一日中会議なんですわ」 「ほんまかいな。あ、そうや、あの店で一緒になった女送って行ったんやて?」 「ええ、あんまり酔うてたもんやから、タクシーに乗せたげたんですわ」 「それだけとは思えんけどなぁ、あんたは」 さすがに鋭い、と田中は思った。 あの後、その夜の発表者である生物学の教授を囲んでの懇談の最中、「千夜」のマダムから小さな紙切れを受け取った。そのメモには、キタのショーパブの店名と時間が書いてあった。 ニューハーフのショーパブには何度か行ったことのある田中だったが、その店の名前は初めて聞く名前...

第四話 ドライ・シェリー

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  4-1 肥後橋のたもとを西に曲がり、大川沿いに少し行ったところに「中之島竹林亭」という、古くからある有名な料亭がある。 ここでは毎月第四月曜日に「吟醸酒で楽しむ料理の会」という催しが、その月毎に一つの蔵を選び、ちゃんと造られた日本酒を味わいながら、その日本酒に合わせた料理を楽しもうという趣向でおこなわれている。 田中は、以前からこの会にプライベートで参加していたのだが、今回は意気込みが違っていた。と言うのは、田中の会社の翌年の方針として、割烹料亭への売り込みが決定したからだ。 バー、スナック、レストランでの販売競争は熾烈を極めるとともに、過当競争が値引き競争を呼び、田中の会社のような中堅商社は苦戦を強いられていた。この状況を脱するための苦肉の策が割烹料亭への参入作戦という訳だった。 部長の松田に呼ばれた田中は、課長、係長を差し置いて、新規ルート開拓部隊のチーフに任ぜられ、特別の接待交際費枠も認められた。 田中にとって、その日は本気で山田との対決を始める日でもあった。 山田は、吟醸酒をひっさげて洋酒業界に殴り込みをかけて来た男だ。田中の会社の取引先でも最近、吟醸酒を扱うところが多くなったが、それに反比例してワインの売上は落ちていった。そして、気がつくと、全てが吟醸酒に入れ代わっていたという店までも現れ始め、それが、フランス料理店だったりするのでは、田中の会社としても安閑としていられる筈がなかった。 松田の命を受けて、建て直しに向かった取引先には、必ず山田が置いて行った吟醸酒があった。 会はいつも山田の独壇場で、洋酒を扱っている会社に勤めている田中がその場にいるのもお構いなしに、佳い吟醸酒がいかに佳い料理にピッタリと合うかを滔々と語るのだった。 「本当に佳いお酒というのは水みたいに飲めるお酒です。本当に佳いお酒というのは、散々飲んで帰ってから、もう一杯飲みたくなるようなお酒です」 これが山田の口癖だった。そして、いつも「田中さんとこ、そんなワインありますか」と水を向ける。 「シャンパーニュなら、通しで飲めますけど」 「あんなもん飲んでたら、腹一杯になってしもて、お料理食べられしません」 「辛口の白、例えば、ミュスカデ、モンラッシェあたりなら合いますけど」 「白ワインはお鮨に合うとか言うてはりますけど、要するにレモンとか、酢とかで口をごまかさなあかんわけです。...

第五話 ワイン・クーラー

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  5-1 「田中主任、進んでるのか、例の件は」 「はい、順調に。今日中に企画書とプロジェクト・メンバー、予算計画についてまとめてしまうつもりです。部長には明日にでもご報告しようと思っておりました」 松田部長に呼ばれた田中は、新規ルート開発プロジェクトの進行状況を報告している。 「今日中に女子社員の中から優秀なメンバーを選出するつもりです」 「女子社員を使うつもりかね」 「ええ、わが社の女子社員たちは優秀ですから」 「田中主任、君が女子社員を使うとは珍しいじゃないか」 「はい、ちょっと思うところがありまして。そこのところは企画書の方にまとめますのでお読みいただければと思います」 「田中主任、分かっていると思うが、業界は知ってのとおりの苦境を強いられている。このプロジェクトを進めるに当たっては、僕も君に一任した以上は何も言わないつもりだ。だが、このプロジェクトの成功にわが社の盛衰がかかっていることも事実だ」 「部長、楽しみにしておいてください。じゃ、失礼します」 「あっ、おい、田中主任」 田中はさっさと部長室を後にした。 「部長、大丈夫なんですか、田中君は同僚の評判も良くないようですし。仕事はチャランポラン、昼は営業にも行かずに電話番、夕方五時にはキッチリ退社、出張に行けば行ったで日程も予算もオーバー」 「林田課長、でも営業成績は彼が一番なんでしょ」 「そこなんです、どうもやり方がおかしい」 「林田課長、やり方は個人の自由じゃなかったんですか、うちの会社は。営業マンである以上、売った者の勝ちなのは当然でしょう」 「ええ、それはおっしゃるとおりなんですが、どうも彼の場合、Aランクの店で売上を伸ばしているとは申せませんでして」 「Aランクだろうが、Cランクだろうが、それは今までの実績に過ぎない訳でしょう。そのAランク店がCランク店並の売上しか出来なくなったからこそ今度のプロジェクトが浮上した訳でしょう」 「はい、それはおっしゃるとおりなんですが、競合他社のキャンペーンに対しても何かぶつけなければと策を練っているような次第でして」 「それって、後づけでしょう。他社がやってることをやっても仕方ないわけでしょう。キャンペーンがいいのか、何か他にやるべきことがあるのか、それも含めて今回のプロジェクト・リーダーは田中主任ですから、よろしく、協力してやってください。大森係長の...

第六話 カリフォルニア・シャブリ

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  6-1 四ツ橋を北に行って二本ほど西に入った所に、割烹料亭の老舗「大吉兆」がある。 この界隈はかつて賑わった花街だが、ひいきの旦那衆が姿を消して行くのに伴ってさびれて行ったということだ。それでも、時々たどたどしい三味線の音が二階から漏れてきたりすることもあり、昔日の栄華を懐かしむかのように老人が立ち止まり、それに耳を傾けてじっとたたずんでいるといった風景に出会うこともある。 暮れもおしせまった頃、田中はこの「大吉兆」で割烹料亭参入プロジェクトチームの第一回ミーティングを持った。 割烹料亭に参入するためには、まず、本格的な料亭の味と雰囲気をプロジェクトメンバーに理解させることが先決である、というのがその理由だった。ミーティングには、部長の松田、課長の林田、係長の大森、プロジェクトメンバーである女子社員の大林、飯島、吉田、唯一の男子社員である頭でっかちの関口の四名、そして田中の総勢八名が顔を揃えた。 「松田部長、チームリーダーの大林です」 田中が任じた大林を松田に紹介する。 「君は、かなりワインには詳しいらしいですね。今回のプロジェクトは田中主任に一任してあります。最後の責任は私が取るつもりですから、安心して、思う存分頑張ってください」 「ありがとうございます。私たちPKOは、田中主任のお役に立てるよう、一生懸命頑張ります」 「PKO?」 「はい、プロジェクト・割烹・大林チームの頭文字を取ってPKOです。わが社の新規プロジェクトのために一生懸命努力したいと思っています」 「ハハハ、PKOですか。それじゃ、海外派遣も検討しなければなりませんねぇ」 「海外の割烹料亭並にワインの揃った店を増やしていきたいと思ってます」 「ほほう、楽しみですねぇ。田中主任、いい人を選びましたね」 「やる気のある社員で、達成目標と役割分担とが分かっているメンバーにしました」 「田中君、たったこれだけでやるというのかね」 「これ以上でもこれ以下でも不可能な人数が五名なんです。松田部長を入れて六名、丁度いい数です」 林田課長がムッとなりながら、 「私は関係ないと言うのかね」 「まぁまぁ、林田課長、今回は部長直属のプロジェクトですから」 と大森係長がとりなす。 「役割を確認します。大林は実質のリーダーです。飯島が料亭担当、吉田が和風レストラン担当、関口は飯島、吉田の補佐です。そして、私は旅...

第七話 マテウス・ロゼ

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  7-1 新年が明け、田中の会社でも初出社の日がやってきた。 休み明けの気分は、初登校する学生のようなもので、何だかウキウキするような気持ちと宿題の提出に少しの不安を抱えての出勤となる。 それでも、女子社員たちの中には振り袖で出社してくる者もいて、正月らしい華やぎが、これから始まる重苦しいサラリーマンライフに一瞬の安らぎを与えてくれる。 松田部長から新年度に向けての経営トップの方針が発表され、部内の新プロジェクトとして発足した田中たちのPKOの活動内容が伝えられた。 林田課長が、一課、二課に続いて、三課の目玉としてのPKOの活動方針を補足して新年の挨拶兼部内ミーティングの全てが終了した。 いつもの年なら、この後景気づけの祝杯を挙げて得意先の挨拶回りに繰り出すところなのだが、それぞれの課では引き続きミーティングに入った。 田中は、それを横目に、林田課長、大森係長が声をかける前にプロジェクトチームのメンバーをともなって会社を後にした。 「主任、どこへ行くんですか?」 振り袖を着たチームリーダーの大林が、田中を小走りに追いかけながら尋ねる。 「ミーティングや。ドトール・コーヒーかワイン・バーか、どっちがええ」 「ワイン・バー、もうやってますか?」 「心斎橋の方やったらやってるやろ、そっち行ってみよか」 田中たち五人は、すっかり葉を落として冬の青空に突き刺さっている銀杏並木の御堂筋を南に向かって歩いて行った。 ワイン・バーも乱立していた頃の活況はなく、ミナミとキタにそれぞれ一軒ずつがかろうじて生き長らえている有り様だった。 その店は、ワインの品ぞろえに定評があり、田中のような業界関係者や、ホテルやバーのソムリエたちが集まる店として知られていた。 席について、田中はミュスカデを、大林たちは例によってワイン・クーラーを注文し、クリームタイプのブリー・チーズをオードブルにした。 「どや、宿題は出来たか」 「あのー、僕の方から発表させて貰ってもよろしいでしょうか」 一番若手で唯一の男子社員である関口が口を開いた。関口にはコンピュータが得意なことから、顧客管理システムを研究しておくように言ってあった。 「コンピュータを使って顧客管理するいうことは、まず前提として膨大な顧客と膨大な入力項目があるいうことです。しかしながら、営業三課の場合、現在、膨大な顧客というには程遠い顧客数...

第八話 コート・ド・ローヌ

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  8-1 心斎橋から御堂筋へ歩き、少しだけ北へ行ったところに、田中の会社「帝国ワイン社」はある。名前が示すとおり、戦前からワインの輸入販売をおこなっており、輸出と引き換えにワインを扱っている電器メーカーなどに比べれば、多少はワインに対する思い入れもコネクションもあった。 だが、当時は滋養強壮剤として扱われていたワインも、今ではアルカリ健康食品として扱われたり、パーティを盛り上げるための小道具として扱われたりするようになり、その販売方法にも消費者にも変化が見られるようになってきた。 田中の会社でも、女性の嗜好性を調査したり、和食とワインの相性を研究したりしていたのだが、突然現れた敵である吟醸酒を迎え撃つべくプロジェクトチームが結成された。田中はそのリーダーに任ぜられ、女子社員を中心にしたメンバーによる吟醸酒打倒作戦が開始されることになった。 「おい、田中主任はどこに行ったんだ!」 「確か、出張だということですが」 林田課長が大森係長を呼びつけて詰問している。 「貿易部の安川部長の秘書で武田佳子さんだ」 「はぁ、どうも。田中が何か」 「何かじゃないよ、とんだヘマをやらかしてるんだよ、田中君は。接待で有馬に泊まってらした安川部長と鉢合わせしてだな、お連れしていたフランスの仕入れ先を怒らせてしまったらしいんだ」 「いえ、怒らせた訳ではないんです」 細面の武田という女が口を開く。 「私が通訳でしたので、私にも責任はあるんです。田中主任のおっしゃることを全部そのまま訳してしまったものですから」 「どういう事だったんでしょうか」 大森係長が武田に尋ねる。 「ええ、実はこちらの田中主任はPKOのプロジェクトリーダーで、大変仕事熱心な方だと伺っています。その仕事熱心が今回災いしただけなんです」 「ハハハ、ちょっと待ってくださいよ、田中主任が仕事熱心だと言うんですか」 林田課長が、からかうような口調で武田に問いかける。 「彼は営業三課でも札つきのチャランポラン男でとおってるんです。だからこそ、問題を起こしたんでしょ」 「いえ、ですから問題ではなくて、海外出張の許可をいただきに参りましたのです」 「かっ、海外出張って誰がです?」 「ですから、田中主任をお借りしたいのです」 「君ねえ、何を言ってるんですか。彼は国内出張でもチャランポランで困った社員ですよ。それが、海外出張なんてと...

第九話 ミュスカデ・シュールリー

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  9-1 枯れ枝に雪が降り積もり、山々を白いなだらかな起伏に変えてもなお降り続ける中を、一台の車が進んでいく。 清澄な空気を胸一杯に吸い込むと、鼻に残った麹の匂いがまたよみがえってくる。室の中で見た、静かに成長していく麹の姿は厳粛ですらあった。その空間を満たしていたものは、数百年の間変わることのない時間の流れの中で、米が酒になろうとする意志であったのではないだろうか、と田中は思った。 「ええもん見せてもらいました。おまけに駅まで送ってくれはるやなんて、申し訳ありません」 「よろしいんですのよ。どうせ私も戻らなきゃなりませんし。それに通り道ですし」 「一緒に住んではるんやないんですか」 「とんでもありませんわ。仕込みが始まったら、女は近寄ることもできませんのよ。今日はたまたま届け物しに来てましたの」 「そうですか、そら、どうも。どちらまでお帰りですか。いや、よかったら晩飯つきおうてくれはりませんか?どうせ、僕も一人やし」 「私も一人だと思ってらっしゃるんですか?」 「あっ、こら失礼しました。モデルさん、やめはったとは言うてはりましたけど、一人とは言わはりませんでしたね」 「一人です、今日は。もしよろしかったら、ちょっとうちに寄って行かれませんか?」 二時間ほど雪道を走って、やっとその女の邸宅に着いた。一面の銀世界の中にポツンとその建物は建っているのだが、鄙びた山里の中に突然現れた別世界を思わせる建物だった。 「ここに住んではるんですか?」 「ええ、今は。少し前に越してきましたの」 玄関を入ると広いロビーが目に飛び込んでくる。ギリシャ風のエンタシスの柱が、吹き抜けになった中二階を支え、水涸れの川に向かってゆるいカーブを描く壁面には大きな窓が三つ穿たれており、ドアで雪におおわれた広いベランダにつながっている。 「寒いでしょ、今、暖炉入れますから。どうぞ奥の部屋で温かい飲み物でも召し上がってください。すぐに暖かくなりますので」 通されたダイニングルームのテーブルにポツンと座り、辺りをキョロキョロ見回していると女がホットウィスキーを持って現れた。壁には女のヌードが大きく拡大されてオシャレな額に入って掛かっている。テーブルの上には、ファッション雑誌「ヴォーグ」の最新号が置いてある。田中がその表紙をふと見ると、目の前に座っている美知子に似ている。 「これ、もしかして」 ...

第十話 ムーラン・ルージュ

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  10-1 ルーブル美術館を東に向かい、少し北に入ったところに魚介類専門のレストラン、オ・ピエ・ド・コションはある。この辺りはレ・アールと呼ばれる地域で、もともと市場があり、かつては、夜の市場としても賑わいをみせていたのだが、パリ市の再開発でアートのある明るい街として生まれ変わった。 安川部長と田中がシャルル・ドゴール空港に着いたのは夕方だった。空港を出ると、先にフランスに戻っていたロートシルトが出迎えてくれていた。排ガスに煙るパリの夕暮れの中を、ロートシルトの執事が運転するベンツでたどり着いたのが、このレストランだった。 店内はレリーフを施した壁に描かれたアール・ヌーボーの絵があでやかで、これから始まる夕食の期待感を盛り上げてくれる。二階の一室に通され、部屋に入っていくと、すでにそこには三人のパリ・ジェンヌが座っていた。 ロートシルトが三人を紹介し、安川部長と田中を三人に紹介した。 「食事に、ワインと女性は欠かせませんからねぇ」 そう言いながらロートシルトが最後に席に着くなり、シャンパンとオードブルのブロン産生牡蠣のレモン添えが運ばれ、食事が始まった。シャンパンは一九六六年テタンジェのブラン・ド・ブランだ。 「三人ともパリ大学で日本語を専攻しているんですよ。これからの私たちのツアーに同行させますのでお好きな娘を選んでください」 ロートシルトがニコニコしながら、田中の方を向いて問いかけた。 「ワタシ、ムッシュータナカが好きですね」 マリアンヌという名前の小柄なボブヘアーの娘が田中に笑いかけながら言った。 「マリアンヌ、それはいい選択だ。ムッシュー田中は、ワインにとっても熱心で、女の子にもとても優しい紳士なんだよ。ミッシェルは、ムッシュー安川についてくれるかな?」 「ウィッ」 ミッシェルと呼ばれた髪の長い長身の娘はうれしそうに安川部長の方を見つめてはにかんだ。 「じゃ、カトリーヌには私の相手を頼もう」 「ウィ、ムッシューロートシルト」 カトリーヌと呼ばれた、三人の中では一番落ちついた感じの娘が左の眉を上げて応えた。 ワインが運ばれてきた。ブルゴーニュ、コート・ド・ボーヌのコルトン・シャルルマーニュ。グラン・クリュで、一九七〇年のヴィンテージだ。料理は帆立てのコキーユのラングスティン海老添え。ロートシルトは黙ってうなづくとテイスティングし、全員のグラスに注がれ...

第十一話 コート・ド・プロバンス

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  11-1 真冬のコート・ダジュールは、イタリアからの強風にあおられて紺碧の海に白い波頭を作り、海岸を散歩するまばらな観光客もコートの襟を立てて足早に歩き去っていく。 レストラン脇の、小石でできたビーチの上にはパラソルと椅子が積み上げられ、夏のヴァカンスの喧騒をわずかに思い起こさせる。 「冬のニースも味わいがあっていいものでしょう」 寒風の中、平然とした面持ちでロートシルトが田中と安川に問いかける。安川は小さく「ウィ」と答え、田中は「冬のリヴィエラ」を口ずさんでいた。一緒に歩いている三人の娘たちは、寒さに鼻の頭を真っ赤にして震えている。 パリでの三日間は、昼は観光、夜はレストランとナイトクラブの毎日だった。そして、ホテルに戻ってからはそれぞれの相手とのプライベートなパーティが待っていた。 「明日はニースです。気分を変えるために鍵も換えましょう」 パリを発つ前夜、ナイトクラブのテーブルでロートシルトが言った。田中と安川はその提案に顔を見合わせたが、娘たちは声を揃えて「ウィ」と言って田中と安川の方を見た。 田中の相手をしていたマリアンヌは、安川を指名し安川の相手をしていたミッシェルは、田中を指名した。 「ノン、それはフェアじゃないわ、私は一緒じゃない!」 ロートシルトの相手をしていたカトリーヌが不満そうに口を尖らせた。 「OK、じゃフェアにするために、右回りで行くことにしよう。マリアンヌはムッシュー安川、ミッシェルは私、そしてカトリーヌはムッシュー田中だ。いいね」 ロートシルトのこの提案に三人の娘は大きく頷いて、「ウィッ」と返事すると新しい相手の横に座りなおした。 田中と安川はこのやり取りをあっけに取られて見ていたが、ロートシルトがテーブルの上に自分の持っていた鍵を置いたのにつられて鍵を出し、それぞれの相手のものと交換したのだった。 「郷に入っては、郷にしたがえ。これ、ローマ人の最大の知恵です」 「日本語の勉強の近道、日本人の友達つくることですね」 「ウタマーロには私以前から興味ありました。でも本当だとは思いませんでした」 最後にマリアンヌがそう言ったとき、ミッシェルとカトリーヌの目がキラリと光り、田中の方を向いて舌なめずりをせんばかりの面持ちで足元から顔までを目で舐め上げた。 「あけすけやなぁ、この娘らほんまに」 「田中君、単なる習慣だよ。このムッシューロー...

第十二話 ヴァン・ジョーヌ

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  12-1 ニースから東に少し車で行ったモンテカルロにグラン・カジノはある。そこで深夜までルーレットに興じた後、田中たちはバーでグラスを傾けていた。 「さて、いよいよ明日からは私のシャトー見学の予定です。順番に、ムッシュー安川はカトリーヌ、ムッシュー田中はミッシェル、そして私はマリアンヌですね」 「やっとこれで一周したことになる訳ね」 「楽しみねミッシェル、貴方、やっとウタマーロの実地勉強ができるわ」 「マリアンヌ、やめてよそんな風に言うの」 「君ら、それしか興味ないんかいな、ほんまに」 「ムッシューウタマーロ、私たちの真面目さをほめてほしいわ、ねえカトリーヌ」 「ウィ、私たち三人はムッシューロートシルトに与えられたチャンスを最大限に生かして勤勉に努力している女学生なんですから」 「それで、成果は上がってるのかね」 「ウィ、ムッシューロートシルト。ムッシュー安川からは誠実さを、ムッシューウタマーロからは日本の美学を学びましたね」 「まぁ、マリアンヌは二回ともジャポネに当たってるんですわ」 「カトリーヌ、明日から誠実さを学べるじゃない」 「そないにペラペラ喋るもんやないで」 「ムッシューウタマーロ、郷に入っては郷にしたがえ、ですわよ」 「そら、分かるけどやなぁ、ねえ、安川部長」 「いや、いいんじゃないの。私もそう思うよ。この状況の中でジタバタしたって始まらんよ」 「部長、大丈夫ですか?」 「大丈夫大丈夫。線、二、三本ブチブチって切ったらいいんだって気がついたんだ」 「そうです、そのとおりです。ムッシュー安川の日本での理屈はこの国ではとおりません」 「マリアンヌには感謝してるんだ。ミッシェルには悪いことをしたと思ってる。本当に」 「私、とってもショックでした。私にどこか悪いところがあるんだと思って、とっても悲しかった」 「それを私は言いました。ムッシュー安川は不真面目だって。ミッシェルが可哀相」 「部長が不真面目やて」 「ああ、田中君、ここまで来て部長はやめてくれないかな。こう、気安く、やっさんとでも呼んでくれた方がいいな」 「おやおや、ムッシュー安川には何か心境の変化があったらしい」 「ええ、そのとおりです。日本では楽しむことは罪悪であるという考え方があります。私も、自分では結構その考え方に反発していたつもりだったんですが、破天荒な楽しみ方というのには馴染め...