第九話 ミュスカデ・シュールリー
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枯れ枝に雪が降り積もり、山々を白いなだらかな起伏に変えてもなお降り続ける中を、一台の車が進んでいく。
清澄な空気を胸一杯に吸い込むと、鼻に残った麹の匂いがまたよみがえってくる。室の中で見た、静かに成長していく麹の姿は厳粛ですらあった。その空間を満たしていたものは、数百年の間変わることのない時間の流れの中で、米が酒になろうとする意志であったのではないだろうか、と田中は思った。
「ええもん見せてもらいました。おまけに駅まで送ってくれはるやなんて、申し訳ありません」
「よろしいんですのよ。どうせ私も戻らなきゃなりませんし。それに通り道ですし」
「一緒に住んではるんやないんですか」
「とんでもありませんわ。仕込みが始まったら、女は近寄ることもできませんのよ。今日はたまたま届け物しに来てましたの」
「そうですか、そら、どうも。どちらまでお帰りですか。いや、よかったら晩飯つきおうてくれはりませんか?どうせ、僕も一人やし」
「私も一人だと思ってらっしゃるんですか?」
「あっ、こら失礼しました。モデルさん、やめはったとは言うてはりましたけど、一人とは言わはりませんでしたね」
「一人です、今日は。もしよろしかったら、ちょっとうちに寄って行かれませんか?」
二時間ほど雪道を走って、やっとその女の邸宅に着いた。一面の銀世界の中にポツンとその建物は建っているのだが、鄙びた山里の中に突然現れた別世界を思わせる建物だった。
「ここに住んではるんですか?」
「ええ、今は。少し前に越してきましたの」
玄関を入ると広いロビーが目に飛び込んでくる。ギリシャ風のエンタシスの柱が、吹き抜けになった中二階を支え、水涸れの川に向かってゆるいカーブを描く壁面には大きな窓が三つ穿たれており、ドアで雪におおわれた広いベランダにつながっている。
「寒いでしょ、今、暖炉入れますから。どうぞ奥の部屋で温かい飲み物でも召し上がってください。すぐに暖かくなりますので」
通されたダイニングルームのテーブルにポツンと座り、辺りをキョロキョロ見回していると女がホットウィスキーを持って現れた。壁には女のヌードが大きく拡大されてオシャレな額に入って掛かっている。テーブルの上には、ファッション雑誌「ヴォーグ」の最新号が置いてある。田中がその表紙をふと見ると、目の前に座っている美知子に似ている。
「これ、もしかして」
「ああ、ごめんなさい。片づけるの忘れていて」
ホットウィスキーは二人の距離感を少なくするのに役立ち、女が出してくれた鹿肉の燻製をナイフで削りながらグラスを重ねるうちに、体の芯から暖まってきた。田中が話を続けようとすると、女は立ち上がり、ドアを開けてロビーの方に出ていった。
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しばらく待ったが女は戻ってこない。田中が腰を上げ、ロビーに入っていくと誰もいなかった。部屋は暖炉で暖められ、厳寒の中の仄かな穴蔵のように田中を迎え入れた。ソファに腰を下ろし、中二階を支える柱を下から上に目で追っていると、カチャッと音がして端の部屋のドアが開き、白いガウン姿の女が階段を下りてきた。
女は白いハイヒールを履き、ガウンの下には胸と張った腰骨に着けた黒い下着が透けて見えている。
「ブランディーになさいますか?」
田中がうなづくと、ガラスケースから数本のボトルとグラスを幾つか取り出し、ワゴンに乗せて運んできた。
「アルマニャックですか」
「ええ、私、パリではこればっかりでしたの。コニャックより個性があって好き」
「パリでモデルのお仕事してはったんですか?」
「ええ、でも、もうやめましたの。今は無職」
「どうしてまた」
「もう十分働きましたし、いやになってしまったんです。いくらでも代わりのいる仕事ですし、毎年毎年新しい子が出てきますし。私でなくてもいいんだと思うとつまらないでしょ」
「はぁ、贅沢ですなぁ。僕らサラリーマンとは違いますなぁ。あっ、実は僕も今度フランス行くことになりまして」
「えっ、お酒のお仕事で?」
「はい、フランスの取引先に招待されまして」
「まぁ、素敵。お酒の輸出なさってるんですか?」
「いえ、僕とこは輸入ばっかりなんです」
「えっ、じゃあ今日父のところに来られたのは」
「ええ、色々といきさつがありまして・・・」
田中が説明を終えて女の顔を見ると蒼白になっている。
「どないかしはったんですか?」
「えっ、いえ、何でもありませんの」
女はそう言ってアルマニャックをあおるとドアを開け、雪の積もったベランダに出ていった。瞬間、目に見えるような冷気が入り込んできて、田中は身震いした。
立ち上がって窓の外を見ると、女がベランダに体を投げ出し、転がりながら降り積もった雪に窪みを作っていくのが見える。激しく雪をはね上げていたがやがて動かなくなり、肩を震わせはじめた。 田中はドアを開け、ベランダに出ようと一歩踏み出した。雪は見た目よりも厚く積もっていて、田中の足を思いの外深くめり込ませた。
女に近づき体を抱き起こしたとき、田中はガウン越しに腰骨の辺りに金属質の手触りを感じた。 女を連れて部屋に入ると、女はガウンを脱いだ。田中にも、両脚の間だけをガッチリとガードしている黒い金属で出来たものが何であるか分かった。
「鍵がないと外せないの。そのフランス人から逃げて来たの私。ジェラシーの固まりなのよ、彼。これがモデルをやめてしまった本当の理由なの」
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「さて、本日は二回目ということで、前回とは違い男性四名をお招きしました。女性の嗜好と男性の嗜好とを比較するという調査も行っていきたいと思いまして」
料亭「大吉兆」には、松田部長以下、割烹参入プロジェクトのメンバー六名と、招待された四名の男性が集まっている。
「まず、ワインの本場フランスからのお客様であるロートシルトさんです」
ロートシルトが愛想を振りまきながら「ボンジュール」を連発している。
「次に、吟醸酒の世界では知らない人のいない山田さん」
「僕は吟醸酒のことでしたらいくらでも喋りますけど、今日はワインの会やいうことで、田中さんのお手並みとくと拝見させて貰います」
山田はにこやかな視線で全員の顔を舐め回した。
「次は、ちょっと変わったお客様なのですが、ワインには大変ご造詣が深く、吟醸酒にも通じていらっしゃる下寺町は味覚寺のご住職です」
チャコールグレイのスーツに焦げ茶のベストを着込み、チャコールグレイと焦げ茶のレジュメンタルタイを締めた住職が両手を合わせて下を向いた。
「そして、貿易部の安川部長。今日は通訳の方もよろしくお願いします」
安川部長がまず松田部長に頭を下げ、次に全員の顔を見渡して一人一人を確かめるように挨拶した。
「さて、前回はどのワインが料理に合うのかということで大量のワインを用意しすぎまして焦点がぼやけてしまいました。そこで、今回はあらかじめお料理をお聞きしておいて、その料理に合うと思われるワインを用意してあります。担当しましたのは、先程ご紹介いたしました料亭担当の飯島です」
丸顔の飯島が頬を紅潮させて「よろしく」と頭を下げた。
「また、お手元には本日のお品書きとワイン名を書いたものをご用意しました。さらに、マッチングの評価、それ以外の推薦ワインを記入する欄も設けてあります。つまり、それがサンプル調査票になっている訳です。氏名、年齢、性別、嗜好品等、記入欄は全て埋めてください。担当は先程ご紹介いたしましたリサーチ担当の関口です」
頭でっかちの関口がペコリと頭を下げながら、
「今後の展開を考えまして、英語のルビをつけてありますのでロートシルト氏にもご理解頂けると思います」
「では、この後の司会進行はチームリーダーの大林が行います」
「では、前菜も出ましたので始めたいと思います。アペリティフは先付の柿なますに合わせましてシェリーです」
会は順調に進み、煮物碗にはコート・ド・ローヌのロゼが合わされ、ロートシルトはニコニコしながら、「セボン、セボン」を連呼していた。だが、作りに合わせた白ワインには顔をしかめてしまった。
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「どうして、ミュスカデなんですか?」
ロートシルトが大林に尋ねた。
「はい、生魚に合う白ワインは無いというのが定説なのですが、シュールリーなら合わせられるのではないかと思いました」
「ノンノン、シュールリー、つまり澱の上ということで、醗酵後に澱を残したままにした上澄みのことです。ただの白ワインにはない奥行きのある味わいをこの生魚は引き出す力がありません。もう少し甘い酒、ロゼの方がいいと思います」
安川部長が大林とロートシルトの間に入り、通訳に回った。
「マヨネーズとレモンをつけて食べればよろしいんやないですか」
山田が口を挟む。
「ウィウィ、多分そうだと思います。酸味のある白ワインには酸味のある食べ物が合いますね」
「皆さん、今ここでマヨネーズとレモンをこのお作りにつけて食べる前に、今からお出しするワインと合うかどうかを試してみてください」
大林の合図でデカンタボトルに入ったワインが全員のグラスに注がれた。
「ノンノン、どんな白ワインもソースの掛かっていないそのままの生魚には合うわけありませんよ」
ロートシルトが首を振りながら両手を軽く挙げてみせる。
「ロスチャイルドさん、もし、このワインがピッタリと作りと合うたら、僕の言うこと一つだけ聞いてくれはりますか?」
ロートシルトが田中の方を向いて、不思議そうな顔をしながら、
「ウィ、構いませんよ。何ですかそれは?」
「それは、飲んでからです」
全員がグラスを持ち上げ一口飲んで、おやっという顔をした。だが、ロートシルトの反応は違った。
「どうですか?ロスチャイルドさん」
ロートシルトはじっと一人下を向いて田中の質問に答えようとしない。
「そのワインはシキの三年もので、ミチコという名前です。どうやら、ご存じのようですね」
突然の田中とロートシルトとのやり取りに、全員があっけに取られた面持ちで二人を見つめている。
「そのワインは作りに合うんと違いますか?」
田中がもう一度ロートシルトに問いかけると、ロートシルトは田中を睨みつけながら、
「このサケはパリで飲んだことがあります。あなたの頼みというのは何ですか?」
「僕に鍵を一日だけ貸してほしいんですわ」
「ノン、それはできません」
「その酒は、美知子のお父さんが造った酒ですわ。あんたもワイナリーのオーナーなんやったら、ワインは子供みたいなもんでっしゃろ。そやけど、ワインの成長以上に子供の成長と健康を願わん親はおらんはずや。美知子のお父さんは、その酒を造るように全身全霊を傾けて美知子を育ててきたんでっせ」
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「へぇ、そんなことあったん」
フランスに旅立つ前日、田中は麻子のマンションで一夜を共にすごすことにした。「もしものことがあったら、これが最後になるかも知れん」と言う麻子の言葉にはカチンときたが、確かに、安川部長とロートシルトとの旅はこの先思いやられる旅になるであろうことは田中にも予測できた。
「それで、そのロート何たら言うおっさん、鍵返したんかいな」
「ええ、始めは自分で持って行く言うて聞きませんでしたんやけど、そこはやっぱフランス人や。会わん方がオシャレや思たんでっしゃろな。僕が郵送することになったんです。おっさんの書いた長い手紙は同封しましたけど」
「ふうん、日本人やったら、やっぱ、追いかけて行くとこやろな」
「ジェラシーと嫉妬とは違うんですわ。力づくで他の男を近づけんようにするのと、近づいて来た男に女の気が行ってるんやないかと疑うのとは似て非なるもんでっしゃろ」
「そうかぁ、そういうことかも知れんな。ちょっとは大人になったんと違う、一郎ちゃん」
「それはないでしょ。そやけどママ、僕も大人になったんやから、大人のすること早よしょ」
「ちょっと待ち、ところで、あんたその美知子とかいう子と何もなかったんやろな」
「ママ、いい加減にしてくださいよ。鉄でガッチリガードしてあるのに、どないして出来ますの」
「いや、あんたやったら悪知恵働かすかも知れんからなぁ」
「僕、そないなサイズと違いますわ」
「ワイン振りかけて何かするとか、したんと違う」
「ママ、脚組んでみて」
「こうか?」
田中は、麻子の組んだ両脚の太股が作りだす窪んだデルタにワインを流し込みながら、
「これ、ミュスカデ・シュールリーいうワインなんですわ。澱の上いう意味で、澱引きしてないワインで深みのある味わいが特徴です」
「それで?」
「こうやって、飲んだら澱の上やからシュールリーやな思て」
「しょうもな!ほな、早よシャブリ出してぇや。うちはあんたのシャブリたい!」
「うまい!」
「今夜のうちはマラスキーノ!」
「ハハハハ、今夜は麻子でレッド・アイ!」
「アハハハハハハハ」
大声で笑いながら、麻子は田中に抱きついた。力を込めて田中にしがみつくようにしながら、肩を小刻みに動かしている。田中が唇を顔に近づけると、涙の味がした。
「一郎ちゃん、気をつけてな。帰って来るんやで」
「何を言うてますんや、大丈夫ですがな。僕の方こそ、ママに貞操帯でもしといて貰わなあかんわ」

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