第十話 ムーラン・ルージュ
10-1
ルーブル美術館を東に向かい、少し北に入ったところに魚介類専門のレストラン、オ・ピエ・ド・コションはある。この辺りはレ・アールと呼ばれる地域で、もともと市場があり、かつては、夜の市場としても賑わいをみせていたのだが、パリ市の再開発でアートのある明るい街として生まれ変わった。
安川部長と田中がシャルル・ドゴール空港に着いたのは夕方だった。空港を出ると、先にフランスに戻っていたロートシルトが出迎えてくれていた。排ガスに煙るパリの夕暮れの中を、ロートシルトの執事が運転するベンツでたどり着いたのが、このレストランだった。
店内はレリーフを施した壁に描かれたアール・ヌーボーの絵があでやかで、これから始まる夕食の期待感を盛り上げてくれる。二階の一室に通され、部屋に入っていくと、すでにそこには三人のパリ・ジェンヌが座っていた。
ロートシルトが三人を紹介し、安川部長と田中を三人に紹介した。
「食事に、ワインと女性は欠かせませんからねぇ」
そう言いながらロートシルトが最後に席に着くなり、シャンパンとオードブルのブロン産生牡蠣のレモン添えが運ばれ、食事が始まった。シャンパンは一九六六年テタンジェのブラン・ド・ブランだ。
「三人ともパリ大学で日本語を専攻しているんですよ。これからの私たちのツアーに同行させますのでお好きな娘を選んでください」
ロートシルトがニコニコしながら、田中の方を向いて問いかけた。
「ワタシ、ムッシュータナカが好きですね」
マリアンヌという名前の小柄なボブヘアーの娘が田中に笑いかけながら言った。
「マリアンヌ、それはいい選択だ。ムッシュー田中は、ワインにとっても熱心で、女の子にもとても優しい紳士なんだよ。ミッシェルは、ムッシュー安川についてくれるかな?」
「ウィッ」
ミッシェルと呼ばれた髪の長い長身の娘はうれしそうに安川部長の方を見つめてはにかんだ。
「じゃ、カトリーヌには私の相手を頼もう」
「ウィ、ムッシューロートシルト」
カトリーヌと呼ばれた、三人の中では一番落ちついた感じの娘が左の眉を上げて応えた。
ワインが運ばれてきた。ブルゴーニュ、コート・ド・ボーヌのコルトン・シャルルマーニュ。グラン・クリュで、一九七〇年のヴィンテージだ。料理は帆立てのコキーユのラングスティン海老添え。ロートシルトは黙ってうなづくとテイスティングし、全員のグラスに注がれた。オマールのソース・アメリケーヌに続いて子羊のロティが運ばれ、ワインが変わった。同じブルゴーニュ、コート・ド・ニュイの頂点、ロマネ・コンティだった。
ロートシルトはそれを見て手を挙げるとソムリエを呼び、そのソムリエの耳元で何か小声で告げた。その途端、その若いソムリエの顔色が変わった。
10-2
出て行ったソムリエに代わって、見事に禿げ上がった小太りのソムリエが、顔を真っ青にして部屋に入って来た。その後ろにはさっきの若いソムリエがワゴンを押しながら従っている。
「ごぶさたしています。ムッシューロートシルト」
その禿げたソムリエは、ロートシルトに挨拶すると、若いソムリエにワゴンをテーブルのそばに持ってくるよう合図した。
ワゴンには、パニエに寝かされたボルドーのメドック地区ポーイヤック村の名品、シャトー・ムートン・ロートシルトが三本乗っていた。六一年、七〇年、七五年。全部最高のヴィンテージだ。
「ご予約名がロートシルト様ではなかったものですから。気がつきませんでした。申し訳ございませんでした」
禿げたソムリエがロートシルトに向かって深々と頭を下げると、見事な手つきで栓を抜き、ロートシルトのグラスに別々に注いでいった。
ロートシルトがうなずくたびにワインはテーブルを回り、田中たちのグラスに注がれた。
「ロスチャイルドのおっさん、これが自慢かいな」
田中はロートシルトの方を向いてそう言ったのだが、ロートシルトは一瞬、えっ?と言う顔をして、マリアンヌの顔を見た。マリアンヌは、それをフランス語でロートシルトに伝えた。
「何や、自分の親父とは訣別した、言うてたんと違うんですか」
マリアンヌが訳した。
「おお、ムッシュー田中、違います。何も自慢するために持って来させたんじゃないんです。ロマネ・コンティは年間たったの五千本しか生産されていません。そのうちの半分がフランスで、半分は輸出されてしまいます。ところが、パリで消費されるロマネ・コンティは年間二万本です。どういうことだと思いますか?」
「つまり、偽物だと」
「そのとおり。ロマネ・コンティの九〇%は偽物なんです。そして、さっきのもそうだったので替えさせただけなのです。もっとも、私の名前も言いましたけどね」
「じゃ、どうして、ボルドーなんです。ご自分のワイナリーのコート・ド・ローヌを出させないんですか。自信がないんですか」
「ムッシュー田中、残念ながらこのレストランには入ってないんです」
「ロスチャイルド男爵の長男やったら、入れられるんと違うんですか」
「ムッシュー田中、それが私のテーマでもあるんです。このワインの格付けがされたのは一八五五年です。そして、百五十年近くたった今でもこの格付けは変わっていません。いくら飲みやすくて旨くて手頃な価格のワインであっても、例え、私がロスチャイルド家の長男であっても、これを変えることはできないんです。それが伝統を重んじるフランスの良いところでもあり、悪いところでもあるんです」
10-3
チーズにロックフォールを選び、デザートにレモンのソルベを食べ、洋梨のタルトが出たところでワインが変わった。
「今夜はムッシュー安川の歓迎の意を込めて、デザートワインを用意してあります」
禿げのソムリエが出してきたのは、ボルドー、ソーテルヌ地方の名門、シャトー・ディケムの六七年だった。ラベルには大きくYと印刷してある。
「メルシ、ムッシューロートシルト」
それを見た安川部長は、そう言ってロートシルトの方を向きニコッと笑いながら、
「イケムの頭文字、イグレックと私の名前の頭文字は同じですからね」
「さすがですね、ムッシュー安川。おお、そうだ。ムッシュー田中には別のプレゼントを用意してあります。ムーラン・ルージュです」
「ムーランのルージュと言うと、ボージョレ地方のムーラン村のムーラン・ナ・ヴァンですか?」
「ほほう、ムッシュー安川の博識はフランス人以上ですね。そうです。ブドウはガメイ種ですが、ボージョレにしては珍しい熟成タイプの赤ワインです」
その会話を聞いていた、禿げたソムリエがおろおろし始める。若いソムリエの方を振り向いて目で問いかけるが、相手は頭を振り、両手を大きく広げて応えた。
「ムッシューロートシルト、非礼はお詫び申し上げます。しかし、ご無理ばかり申されても困ります。どうか、ワインリストにあるものをご注文なさってください」
「ハハハハハ、心配はいらんよ。私はここでそれを注文するとは言っていない。モンマルトルの店で注文するつもりだよ」
「セ・ボン」
禿げたソムリエはその言葉を聞いて胸をなで下ろし、急にご機嫌になった。
「ジャポネのお客さんは、真面目な方が多くて肩がこりますよ、全く」
やっとフランス人らしい冗談とも本気ともつかない軽口が出るようになった。
キリッと冷えた甘いソーテルヌを飲み、エスプレッソを飲み、最後にアルマニャックを飲む頃には、食べたもので喉まで一杯になったような満腹感と満足感が田中をおそってきた。安川部長の方を見るとやはり同じような顔をしている。
「もう、あきませんわ、僕」
「あのなぁ、これからだよ田中君。ここで腹一杯になってたんじゃ、フランス人との商談なんて夢のまた夢なんだからな」
「はぁ、そうですか?」
田中と安川部長がこそこそ話していると、
「さぁ、そろそろ行きましょうか、ムーラン・ルージュに。それとも、この娘たちの方がいいですか?おお、そうそう、今夜のホテルの鍵です。忘れないうちに渡しておきます。こっちが、ムッシュー安川ので、こっちがムッシュー田中の分です」
10-4
店を出ると、さっきの執事の運転する車がエンジンをかけたまま目の前に止まっていた。
田中が、執事は食事はしたのか、とロートシルトに尋ねると、車の中でパンとチーズとワインか何かで済ませているから心配するなと言う。一緒に食事をすれば良かったのに、と言うとロートシルトは不思議そうな顔をして、お互いに気を使うだけだ、と言った。
車は北へ向かい、次に西に走ってモンマルトルの麓の「赤い風車」の前に着いた。
モンマルトルは、「殉教の丘」という意味のとおり、かつては教会と墓地と葡萄園だけの閑静な場所であったのだが、今は歓楽街としての方が有名になってしまった。寺の近くに歓楽街というのは、世界共通の現象らしい。
二、三百人ほど入る劇場はすでに客で一杯だったが、田中たちは二階のボックス席に通された。 田中たちが席に着くのを待っていたかのように客席が暗転し、舞台が明るくなった。
劇場主が舞台の袖で挨拶を始めた。二階の田中たちの方を指し示すと、照明が当たり、客席から拍手が沸いた。どうやら日本からの客であると紹介しているようだ。続いてアメリカの客、イタリアの客などが、ブラックユーモアを交えた歓迎の言葉と共に紹介されていく。シャンパンが運ばれてきた。
引き続いてコントが始まり、マジックあり、ダンスあり、ストリップありのバラエティーショーの後は、この店の名物フレンチ・カンカンで締めくくってフィナーレを迎えた。
「さぁ、お嬢さんたちは寝る時間だ。君たちは先に帰りなさい」
ロートシルトはそう言って娘たちを帰すと、
「さて、静かなところに行きましょうか、我々は」
と、田中の方を向いてニヤリとした。
ロートシルトが案内してくれた店は日本食レストランだった。
「ムッシュー田中、この店のサケをよく見ておいてくださいよ」
車の中でそう言われてはいたが、さすがの田中も時差ぼけに耐えるのが苦痛になってきた。眠そうに目をしばたたく田中を見ながら、
「ノンノン、ムッシュー田中、まだ眠るのは早いですよ。今寝てしまったら、こっちにいる間、ずっとシンドイですからね」
というロートシルトの言葉を通訳しながら、安川部長も必死に耐えている様子が窺えた。
テンプラを食べ、日本で飲むのと同じ吟醸酒を飲んでいると、フランスにいるのを忘れてしまいそうだった。
「さあ、次はカラオケに行きましょう!」
まるで日本の商社マンのような遊び方をするロートシルトにつき合わされ、最後には三人で一緒にフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を合唱し、ホテルに送り届けて貰ったのはもう夜中を回っていた。部屋に上がっていく二人の背中に、「明日は、クレイジーホースだよ!」という声が聞こえた。
10-5
クロワッサンにカフェオーレというコンチネンタル式の朝食を食べながら、田中は昨夜の夢のことを思い出していた。
夢には美知子が出てきて、しきりに田中の持っている鍵をほしがった。
「これは、違うんです。これはホテルの鍵です」
「いいえ、それです。それで早く外してください」
「鍵は郵便で送ったはずです」
「いいえ、ほら、貴方の持っているその鍵です」
美知子は、鍵を持った田中の手を自分のへその下に持っていくと鍵穴を示した。田中は、導かれるままに鍵穴に自分の持っていた鍵を差し込んだ。なぜか鍵はピッタリと合い、カチリと音を立てて錠が外れた。
錠が外れた瞬間、美知子のへその下をおおっていた鉄片が粉々に砕け散り、同時に閃光がほとばしって、田中の目を射た。
田中がたまらず目を閉じ、再び開けると、美知子の腰の部分が、鉄でおおわれていた形のまま、眩しいばかりに輝いているのが見えた。
虹のようなその輝きを見つめていると、ちょうどその部分に空洞が広がり始め、そのずっと奥の方で輝きの光源が強烈な光を放っているのが見えた。田中が近づいていくと、その空洞はますます広がり、田中は吸い寄せられるようにその空洞の中に入り込んだ。
その途端、空洞の入口が急激にしぼみ、田中はその空洞の中に閉じ込められた。その空洞は薄い膜でできているようで、両手で押してみると柔らかくて温かい。見上げると、赤い筋が何本も絡み合って走っているのが透けて見える。
田中は、振り返ると必死で入口のあった辺りを手で探り、鍵穴を探していた。鍵で開けて外に出ようとしていた。鍵穴はいくら探しても見つからなかった。そして、鍵もどこかに消えていた。
田中は、その空洞の中にしゃがみこみ、両手で肩を抱いてしばらくじっとしていた。
やがて空洞は収縮し始め、田中の体を圧迫し始めた。圧迫されながら、田中の体も収縮していった。規則的な収縮を繰り返しながら、空洞は徐々に田中の体を外に押し出し始めた。入っていったときとは違う、全身が剥き出しになった神経におおわれているかのようなはっきりとした感触の中、田中は空洞の外に立っていた。
見ると、空洞は収縮していきながら、規則正しく呼吸しているかのように開いたり閉じたりしながら美知子のへその下に息づいていた。
「ありがとう。ムッシュー田中」
美知子はそう言うと、くるりと背中を向けて闇に消えて行った。闇の中で、ロートシルトの書いたフランス語の手紙が風に巻かれて飛んでいた。
「ボンジュール、ムッシュー田中」
その声に、田中がベッドの方を振り向くと、シーツの間からニコニコしながら顔を覗かせたのはマリアンヌだった。

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