第三話 キール・ロワイヤル

 




3-1

朝晩の寒さがそろそろ本格化しはじめ、郊外では霜柱を踏んでの出勤が増える頃になった。

それでも、かじかんでしまった体も心も、満員電車から会社に向かう頃にはほぐれ、昼食時にもなれば、ルーティーン・ワークのもたらす治癒力のお陰で自分を取り戻すことができる。


ところが、月曜日の早朝ミーティングとなると話は別である。


このところの不景気で、田中の会社でも営業部の 全体ミーティングが毎週のように行われていた。まずは販売成績の発表があり、次に販売目標、そして、そのための施策と続くのだが、いつの週も最 後に唱和する「頑張るぞ!」の声に象徴されるように、何の具体的実行目標も示されないまま、第二次大戦の頃の竹槍攻撃さながらの無策が繰り返されるばかりだった。


昼までの予定の会議ですら、白熱することのない まま、二時間もたたない内に終わってしまった。会議室からぞろぞろと溢れでてきた営業マンたちは書類を机の上に放り出すと早飯へと繰り出してい く。


田中が自分の机に腰を下ろすと同時に、電話が鳴った。


「田中さん、どないしてんのん、今日は」


阿波座のママの声だ。


「いやぁ、もう、朝から会議で大変ですわ」


「ああそう、サラリーマンらしいこと、ちょっとはしてるんやねぇ」


「そらそうですわ。僕かて、会議くらいは出ますがな」


「あんた、キタのベルサイユ行ったんやて?」


「えーっ、ママ、あの店、知ってはるんですか。か なわんなぁ」


「そらそうや、うちは、業界のゴッドマザーや言われてるんやから」


「はははは、参りました。でも、あの店にはほんまにさすがの一郎君もびっくりでしたわ」


「そうやろな。でも、あのママ、あんたのこと気に入ったみたいやで。そらそうと、今日は外回り違うの」


「すんません、今日は、一日中会議なんですわ」


「ほんまかいな。あ、そうや、あの店で一緒になった女送って行ったんやて?」


「ええ、あんまり酔うてたもんやから、タクシーに乗せたげたんですわ」


「それだけとは思えんけどなぁ、あんたは」


さすがに鋭い、と田中は思った。


あの後、その夜の発表者である生物学の教授を囲んでの懇談の最中、「千夜」のマダムから小さな紙切れを受け取った。そのメモには、キタのショーパブの店名と時間が書いてあった。


ニューハーフのショーパブには何度か行ったことのある田中だったが、その店の名前は初めて聞く名前だった。


場所は頭の中ですぐに分かったのだが、どうしても「ベルサイユ」という店の名前が思い出せない。だが、田中には突然先方から切り出されたデイトの誘いを断る理由など、どこを探してもあろうはずはなかった。

3-2

新地の行きつけのバーで口直しにジン・リッキーを飲み、マスターと二言三言喋るうちに指定された時間になった。

店はすぐに分かった。キタのバーやクラブはすべて頭に入っている田中なのだが、顔を出すことのない店もある。「ベルサイユ」という店も、そんな店 の一軒だった。


店内にはタキシードとイブニングドレスが舞踊り見渡したところ女の客ばかりで、インテリアは店名どおりのルイ十四世時代の宮殿のイメージだ。 田中の服装は全くと言っていいほどそぐわない。 グレイのフラノのスーツに黒の革靴、そして黒い分厚いトランクというスタイルで入口に現れた男に対して店内から敵意に満ちた視線が飛んできた。


「どなたかお探しでしょうか」


目の上にも下にもアイラインを入れた独特のメイクをしたドレスの女が聞いたと同時に、右手の奥で手が上がった。


田中がそっちに向かって会釈を返すのを見て女が振り向き、相手を確認すると不思議そうな一瞥をくれながら席に案内した。


「遅かったじゃないか」


席に着くなり女が話しかけてきた。「千夜」にいたときとはまったくの別人になっている。


「すみません。ちょっと寄ってきたものですから」


「なんで真っ直ぐ来ないんだ。君は僕の言うことが聞けないのか」


まったく宝塚の男役の口調になっている。


「君は何が飲みたいんだ。今夜は僕が奢ろう。何でも好きなものを言いたまえ」


田中は、さっきの店の続きでジン・リッキーを注文しようとした。


「馬鹿野郎!こんな店でそんな野暮なものを注文するんじゃない。ワインを飲みたまえ。君、こいつにワインを持ってきてやってくれたまえ」


「あっ、ワインやったら、これ飲みましょ」


田中は、トランクからキャンティのロゼを取り出した。


「おっ、君はなんて準備がいいんだ。それは僕の大好きなワインじゃないか。おい、グラスだ、グラスを持ってこないか」


あわててタキシードとイブニングドレスの二人が 奥へと消えていった。


女はよく喋り、よく飲んだ。猫脚のテーブルの上に脚を上げ、ブランディーをあおるように飲む女を見て立ち上がりかけた田中に、


「おい、君、僕を送っていってくれたまえ!」


「そうですな、もうそろそろお開きにしましょか」


見渡すと客はもう誰も残っていない。


田中が、すっかり飲まれてしまって軽くなったトランクを左手に、右手に女の肩を抱えて立ち上がると、


「おい君、何をする!僕の体に触るんじゃない!」


突き飛ばされてよろめく田中を一人のタキシード が受け止めた。


おお、お似合いじゃないか君たちは。君、彼がこの店の主人だ。よく、顔を覚えておくんだな」

3-3

タクシーは北へと向かいやがて瀟洒な古い洋館の前で止まった。

大きな門扉の横の、白いペンキが剥げかけた小さなドアを開けて中庭を抜け、石段を上がり茶色のドアを開けて建物の中に入った。家の中は、アール・ ヌーボーの照明に照らされて薄暗く、冷たく、しんと静まり返っている。


漆喰壁といい、床の絨毯といい、調度品といい、クラブ「千夜」と共通点がある。おそらく、初代のオーナー、つまり、この女の祖父の屋敷だったのだろう。


居間のドアを開け、女はソファに倒れ込むなり、


「おい、火をつけろ!」と田中に命じた。


古臭い暖炉は薪をくべるようになっていたのをガス式に改良してあり、大理石でできた縁飾りの上には、何やら写真が飾ってある。セピア色になってし まった家族の写真も、女が舞台で活躍していた頃のカラー写真もある。


「おい、脱がせろ!」


田中が振り向くと、女が絨毯の上に大の字になってシャツのボタンに手を掛けている。


「おい、聞こえないのか、早く脱がせろ!」


暖炉の前は温かくなってきたとはいえ、部屋の中はまだ薄ら寒い。


「風邪ひきまっせ、こんなところで脱いだら」


「うるさい!黙ってろ!」


女は素晴らしい勢いで洋服を脱ぎはじめた。ボー・タイを放り投げ、シャツを脱ぐと胸がはだけた。黒いブラジャーを、力一杯引っ張ると、 ガスストーブの赤い炎に照らされて、小さな乳首の割に豊かな乳房が浮かび上がる。長い首とへこんだ 鎖骨の回り、小さな肩。洋服を着ているときには想 像もできなかった華奢な体をしている。


女はブラジャーを引きちぎると、ズボンに手を掛けてもどかしそうにファスナーを下ろそうとする。


「おい、何をしている。手伝え!」


田中は女の剣幕に押されて、おずおずとズボンを引き下ろし、黒いストッキングを脱がせると、大きく張った腰骨に張りついた黒いビキニが現れた。縦に沈み込んだへそから腹にかけて、脂肪のまっ たくついていない体をしている。筋肉質の太股からふくらはぎにかけての線は、ダンサーかスイマーのそれに近い。


「おい、お前も脱げ!」


女が下から薄目を開けて叫ぶ。


田中が、女の下着の上から恥骨の辺りを指でなぞっていると、いきなり、その手をわしづかみにして体を入れ替え、田中に馬乗りになった。ネクタイを外そうとする女の長い爪が田中の首を 引っ掻いた。


「あいたっ、自分でやりますがな」


田中が女の体を横にやり、背中を向けて上着を脱 ぎ、ネクタイを外し、していると黒い下着がソファの上に飛んできた。振り向くと、自分で下着を脱いだ女が、また大の字になっている。


「おい、舐めろ!」

3-4

女は田中の目を見て、また言った。

「おい、早く舐めろ!」


「舐めろって、どこをですか」


「決まってるだろう!舐めると女が喜ぶところじゃないか」


「舐めろって、まだシャワーもしてませんがな」


「馬鹿野郎!それが美味いって言ったじゃないか」


「あのねぇ、僕にはあんな趣味はありませんわ」


「君は、今夜あの女のチーズを食って、美味い美味いと言ってたじゃないか」


「あんなもん、美味いわけありませんがな。知ってたら食べますかいな、ほんまに。シャンパンにだまされただけですわ」


「そうか君はシャンパンにならだまされるんだな」


女は突然立ち上がり、ドアを開けて出ていった。とても細いくせに尻と胸が不似合いに豊かな体が 闇の中に吸い込まれていくのを見ながら、不思議な 夜になりそうだな、と田中は思った。


「さあシャンパンだ、今夜を祝って乾杯しよう!」


女は、左手にグラスを二つ、右手にボトルを一本持って戻ってくると、田中に向かって突き出した。田中が慌てて立ち上がり女を支えるようにしてグラスとボトルを受け取り、ソファに座らせようとすると、するりとそれをかわしてまたも暖炉の前の絨毯の上に倒れ込んだ。


そして、田中の目を見ながら、


「カシス、あるだろ、カバンの中に」


「ああ、そうでした。確かに、あれ一本だけ残ってましたな」


ベロベロに酔っているくせに妙なことだけは覚えている女だ。


田中はトランクの中からクレーム・ド・カシスのボトルを取り出し、フルート型のシャンパングラスに二、三滴落とし、ゆっくりとコルクを回して静か にシャンパンの栓を開けると、その上からたっぷりと注いだ。


綺麗な赤にグラスは染まっているはずだが、ストーブの赤い色に溶け込んでよく分からない。


「キール・ロワイヤルなんて、最高のアペリティフですな」


田中が、グラスを持って女のところまで運ぶと、 寝込んでしまったのか、身動き一つしない。


田中は二つのグラスを自分でぶつけ合い、一口飲むと立ち上がり身支度を整え始めた。と、その気配を感じた女が起き上がり、


「おい、どこへ行くんだ」


「帰らせてもらいます」


「僕を裸にしておいて、どうするつもりだ」


「裸にって、自分で脱いだんやないですか」


「いや、脱がせたのは君だろう」


「アホらしい、何をいうてますんや。帰りまっせ」


田中がシャツのボタンをはめ始めると、背中で女のすすり泣きがする。


「なんで、脱がしたんよ、ちゃんとしてよ」


田中が振り向くと、女が体を起こし、四つん這いになってこちらに向かってゆっくりと進んでくるところだった。

3-5

ワイルドなのが好きなのだと、その女は言った。

女は、キールを飲みながら田中の物を泣きながらしゃぶり、田中はバニラの匂いにむせながら、女の硬い突起を探り、成長していないヒダを指でめくり舌でかき分けるようにしながら唇で愛撫した。


目を上げると、女の可愛らしい肛門が見える。田中は一口キールをすすり、そこに舌を差し入れた。 そこも、甘い香りのバニラの味がした。


女は両脚で支えた体を浮かし、反転すると、ボトルを取り、田中の物にシャンパンを頭から浴びせるように注いだ。シャンパンは田中の物を伝い、腹の上に泡を立てると陰毛を浸した。


女はそれを舐めながら、下から先に向けて舌を這わせ、すっぽりとくわえると数度往復した。口腔の温かさが伝わってくる。と、すぐにそれよりも窮屈な管の温かさに変わった。


始めはゆっくりと、そして徐々に女は腰を落としていった。田中をスッポリと腹に収めると、女の体が上下しはじめ、両手で田中の肩をつかみ、胸をつかみしながら激しく動き始めた。田中が女の尻を支えようとすると、女はそれを振り払い、シャンパンを自分の胸に注ぎかけた。


シャンパンは女の腹を伝い、田中と女の結合部に流れていき、こすれ合う陰毛でベタベタした白い泡を作った。


女は、自分の乳房を片手で握り、片手で田中の胸に爪の跡をつけて果てた。そして、田中の物を抜き取ると、シャンパングラスに入れ、二、三度すすぐようにして抜き出し、それをしゃぶった。


「こうしてあげると、おじいちゃんが喜んだの」


見ると、女の手に持ったグラスが美しい赤に染まっていて、とてもよくできたキール・ロワイヤルに見えた。


「主任さん、どうしたんですか?」


「えっ、ああ、なんや」


「何やって、ぼーっとしてはりましたよ」


電話を切って、どうやらずっとあの夜のことを思い出していたらしい。


「ああ、そうか、会議疲れやねん。しょうもない話ばっかりで」


「やっぱ、うちの会社も不景気でボーナスあかんのんでしょうか」


「何言うとるんや、そんなこと、君らが心配せんでええ。売れるとこに売れるもん売ったら、なんぼでも売れるんや。それだけのことやがな。ところで、君ら、昼飯、行けへんのか」


「えっ、主任さん、おごってくれはるんですか?」


「おお、よっしゃ、おごったろか。何にする?」


田中は女子社員を連れてフランス料理のランチを食べに行った。その日のランチは子羊のソテーだったのだが、食前酒に出てきたのは偶然にもキール・ロワイヤルだった。


店内に射し込む明るい光を受けて、グラスの中で赤く輝く液体を見ながら、田中は呟いた。


「やっぱこのアペリティフは昼に飲むもんやなぁ」

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