第二話 ドン・ペリニヨン
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道頓堀川を東に辿り、北へと向きを変えると川の名前も横堀川と変わる。その横堀川が大川へとつながる少し手前にコクサイホテルがあるが、そこからそう遠くない場所にバー「ワンナイト」という店がある。そして、その店の奥にはもう一つ、ドアで仕切られた部屋があり、クラブ「千夜」と呼ばれている。
「ワンナイト」とは、一夜という意味だから、両方合わせて千夜一夜という意味になるのだが、現在すでに三代目になるというこの店は、最初のオーナーがつけた名前のまま営業しているのだということだ。
初代のオーナーはすでに亡くなったとかで、どんな意図でそんな名前をつけたのか、正確に言える客は少なくなってしまった。聞くところによると、代々息子がマスターを務め、初代は童話作家としても名の通った人だったというのだが、そうなると、ますますこの店名は似つかわしくない。
ある古くからの客によると、アラビアンナイトのように、夢のある店だったというのだが、それが、どんな夢のある店だったのかは知る術もない。ただ、昔は、美しい女たちの溜まり場になっておりその若い女たちを巡って、客たちが争うことがよくあったということだった。
それは今も昔も同じことで、バー「ワンナイト」では時々目も覚めるような美人がグラスを傾けているのを目撃することがある。
客たちといえば、身なりの卑しからぬ割りには目に陰惨さをただよわせていたり、荒涼とした砂漠を背中に背負っていたりするかと思えば、ラフだが仕立てのいい洋服に身を包み、飄々とした風情でショットのスコッチをあおっていたりするのだ。しかもどの客も何やら一家言ありそうで、互いに張りめぐらせた緊張感という糸がレーザー光線のように飛び交っているのが見えるかのようだ。
そのせいかどうか、マスターも無口で、客の注文の酒を作る以外はグラスを磨いているか、使い込まれて黒光りのするテーブルを拭いているかで、自分から客たちに話しかけるようなことは決してなかった。
客の一人が話し始めるとそれを合図に、会話がペアとなり、やがて交錯し始める。そして、それら常連の中からマスターの眼鏡にかなった客だけが、マスターから奥のクラブ「千夜」のドアを示されるのだった。
田中が入っていくと、マスターはすぐに奥のドアを目で示した。それに応えて田中がバーを素通りして奥に向かって歩き始めると、カウンターの客たちから鋭い視線が飛んできた。
散々通いつめ、やっと、バー「ワンナイト」のマスターからは口座を開いてもらったのだが、妹が経営しているという奥のクラブには、まだ通されたことがなかった。それが、今夜叶うことになっていたのだ。それでも田中が、奥へと通されたことに納得のいかない様子がありありと窺えた。
田中は、そんな客たちの羨望と嫉妬の眼差しの中を奥へと進んでいった。
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部屋の中には頽廃とともに倦怠が満ち、シガーの匂いと煙、それに酒の匂いが絡み合いたゆたっていた。
この部屋は、見渡したところ食堂のようでも、居間のようでもある。調度品はすべてウォールナットで統一してあり、大きな丸い食卓が据えられ、一角には応接テーブル。正面の壁面には、スコッチとブランディーのボトルが並び、その下には赤ワインがラックに納まっている。フランスのヴィンテージものばかりだ。その前にはカウンターテーブルが置いてある。左右の壁面には食器棚が置いてあり、中には、ワイングラスやショットグラスなどのグラス類が整然と並べられている。そして、天井からはシャンデリアが下がり、ところどころに置かれたスタンドライトが趣味のいいゴブランで統一された椅子やソファの張り布を浮かび上がらせている。
カウンターテーブルの右手にはビロードのカーテンの下に石段が見える。石段は、地下にあるワインカーヴへとつながっており、右手の食器棚の横にあるドアを開けると、隣の部屋はプールになっていて会話と酒に飽きた客たちが玉を突いて遊べるようになっている。ヨーロッパの貴族の館などによく見られるレイアウトをそっくり持ってきたに違いない。壁や天井に施されたレリーフから推察するに、おそらく、大正時代のオシャレな粋人たちに愛されたに違いないことは想像に難くない。
ドアを開けるなり立ちすくんでしまった田中に、執事のいでたちをした男が声を掛けてきた。
「いらっしゃいませ。確か今夜は、初めてのお越しでございましたね。当クラブへのご入会、誠におめでとうございます。さて、当クラブには、設立当時より守られてまいりました約束事がございます。この約束事をお守りいただきませんと即刻退会ということになってしまいますのでご注意くださいますよう、お願い申し上げます。約束事は、たったの三つでございます。では、申し上げます。一つ、仕事の話はしない。二つ、家庭の話はしない。三つ、ゴルフの話はしない。以上でございます。この三つだけお守りいただいてぜひこのクラブをお楽しみいただきますよう、よろしくお願い申し上げます」
執事風の男は棒立ちになって立ちすくむ田中に向かって一気にまくし立てた。
「あっそれから、ここでのご飲食、及び施設のご利用はすべてご自由ですが、自主申告制ということになっておりますのでよろしくお願い申し上げます。そのトランクは、こちらでお預かりいたします。それでは失礼いたします」
執事風の男は、そう言い残すと行ってしまった。部屋にはすでに数人の客がいる。それぞれの好みの酒を前に、カードをしていたり、話し込んでいたり、一人頭を抱え込んでいたりする。田中が空いた席を見つけ、とりあえず座ろうと食卓の方に、歩きかけたとき、背後で声がした。
「そっちとちゃうで!」
2-3
その声に一瞬体をこわばらせた田中がゆっくり振り向くと、その声はソファに体を沈めた、恰幅のいい初老の男から発せられたらしいことが、田中に向けられた柔らかい視線で理解できた。もう一度男が言った。
「そっちとちゃうで。こっちや、こっちおいで」
男の手招きに応じて田中が近づいていくと、
「ま、そこへ座んなはれ」
田中は言われるがままソファに座った。
「ようおこし、待っとったんや、なぁ」
と、ソファに座った客たちの顔を見ながら男は続ける。
田中はその男の顔を近くで見て、アッと声を上げそうになった。見たことのある顔だ。それも、テレビや新聞で何度も見たことのある顔だったからだ。田中はとっさに立ち上がると、胸のポケットから名刺入れを出し、
「あっ、わ、私は実はこういう者でございまして」と、自己紹介を始めた。
「あかんあかん、あんた、何を聞いてたんや。さっき黒服が言うとったやろ。ここに来たら、そんな話はなしや」
「あっ、は、はい。申し訳ありません」
「まぁまぁ、初めてやさかいしゃぁないがな」
と、とりなしてくれる隣の客の顔を見て、田中はまたも緊張してしまう。隣の男も著名人の一人だった。
「あのな、その名刺引っ込めて座んなはれ」
田中が名刺をしまい込みながらソファにへたり込むと、男が続けた。
「あのな、ここへ来たら、さっき黒服が言うたとおり会社とゴルフと女房の話はなしや。つまりやな、わしらのここでの立場は平等っちゅうわけや。一人の男同士としてやな、対等に話しょうっちゅう訳やな」
「そやから、ここでは、お互いにわし、あんたや。社長も先生も会長もなし、敬語もなし、名前もなしや」
「じゃあ、あなた、会社とゴルフと女房の話以外だったら何が残ると思います」
初老の白髪の男に続いて、隣の禿頭の小太りの男とその隣の髭をたくわえた紳士が田中にたたみかける。田中は一瞬とまどい、その髭の紳士の顔をじっと見つめて答えた。
「た、多分ですけれど、酒と女しか残らないんじゃないかと」
初老の白髪はそれを聞いて嬉しそうに、
「そうやがな。そういうこっちゃ。ここにきなはったらな、それしか話題にしたらあかんのや」
「はあ、そ、そうですか、わ、分かりました」
「そないに緊張せんでもええ、ま、向こういって飲んどいなはれ。後でまたお会いしまひょ」
「は、はぁ」
田中は、立ち上がるとロボットのようなぎこちない歩き方で、大きな丸い食卓に向かって歩いていった。
「えらい緊張してはりまんな、あのお方」
「そら、最初はあんなもんでっしゃろ。女かて、最初は皆、処女なんや」
「楽しみですね。マスターの見る目はいつも確かですから」
2-4
ジャズが低く流れはじめた。きっと入ってきたときから流れていたに違いないのだが、田中の耳には聞こえなかったのだ。曲は「マック・ザ・ナイフ」だ。
「えらいクラブやなあ」
田中が、そう呟きながらテーブルに腰を下ろそうとすると、さっきの執事風の男が隣に腰を下ろした。
「田中一郎さん、ですね」
「はっ、はい。田中です」
田中が立ち上がって男の顔を見ると執事とは違う。
「私がここの責任者です」
田中は相手の顔をまじまじと覗き込んだ。ショートヘアを撫でつけ、目鼻だちのはっきりした顔をした女だ。宝塚のトップだったとマスターから聞いていた。
田中は椅子に座りながら、
「それで、男装がよくお似合いなわけや」
「今でも、この恰好が一番好き。昔は女の恰好がしたくて仕方なかったのにね」
田中は、鼻筋の通った女の顔から、テーブルのカナッペに視線を移した。カナッペは、色々なものがクラッカーに乗っていた。キャビアもあれば、フォアグラも、アンチョビもあった。
グリーンの、多分アボカドをすりつぶしてディップ状にしたものは格別の味がした。そしてもう一つクリームチーズは、ブラッシュタイプの香りがかすかに漂い、舌を刺すこともなくまろやかな風味が鼻の奥をくすぐる。
「やっぱ、シャンパンですな、これは」
「ドン・ペリニヨンでいいかしら」
女が手をあげて執事風の男に注文する。それを見て田中は、
「『風と共に去りぬ』のクラーク・ゲーブルみたいですなぁ」
「あら、レット・バトラーは私の当たり役なのよ」
女は一瞬口許をゆるめ、美しい眉をひそめて、
「カナッペは、キャビアだけにしといた方がよろしいですわよ、今夜は」
と、田中にウィンクを送ってきた。
「そうですかこのチーズは口に合いますけどなぁ」
シャンパンが運ばれた。
「フランスの坊さんも、美味いものを造るもんですわ。シャンパンはシャンパーニュ地方のものしか、そう呼んだらあかんのですよね」
「あら、よくご存じ・・・・」
突然、ブザーの音が部屋中に響き渡った。と同時に照明が落ち、代わりに右手のドアにスポットライトが当たり、二人の女が浮かび上がった。
「ほほう、ショー・タイムですか」
「ええ今夜は教授の番なの。ちょっと失礼します」
女は二人とも何も身につけていない。一人は金髪でヨーロッパ人だろうか、外人にしたら小柄だ。乳房も大きくはないが、形のいい天を突き刺すような生意気な形をして、左右を向いている。陰毛の生え方が蝶の形を連想させる。
もう一人は髪が黒く、肌も少し浅黒い女だ。髪も陰毛もかなり縮れていて、密集した局部からピンクのクリトリスが、口からちょっとだけ覗かせた舌先のように見える。
金髪の方の股間が、照明でキラリと光るのが見えた。
2-5
二人の女はゆっくりと、ダンスでもしているような優美な動きで回転しはじめた。背中から尻の美しい線がスポットライトの中で強調されて浮かび上がる。金髪女の形のいい逆ハート型の尻が誘うように突き出され、産毛がそれを大きな桃のように見せている。
金髪よりも黒髪の方が尻が上がっていて、まるで丸いボールが二つ背中の下にくっついているように見える。二人とも少し脚を開きぎみにして回転するためにどうしても性器の辺りが尻の間から見えてしまう。
「お待たせいたしました。この二人は今夜のお話のオードブルだということでございます。皆様、あちらの食卓の方へお集まりくださいませ」
レット・バトラーの声で部屋の中に散らばっていた客たちが食卓に集まってきた。一堂に会してみると二十人ほどになった。プールの部屋にだいぶ集まっていたのだろう。部屋の照明をテーブルの上だけにして、音楽も消された。
「今夜は私の順番になっておりましたが、どうも私は口下手なもので・・・」
見ると、さっきの髭の紳士が話している。
「・・趣向を変えてと申しますか、何とぞお許しをいただきまして、実物を目の前にさせていただきまして私の話下手を補わせてもらいたいと存じます」
二人の女が食卓の上に上ってきて、あぐらをかいて座り、上体を後ろにのけ反らせた。
「私は、この二人の女を深く愛しております。どのくらい愛しているかと申しますと、もう、食べてしまいたい程でございます」
回りから、オオーッという嘆息とも歓声ともつかない声が上がった。
髭の教授が話を続ける。
「こちらの金髪の女は、フランスで、こちらの黒髪の女はフィジーで見つけました。勿論、大変申し訳ないのですが、私は堪能する程この二人を味わいつくしました。私たちが普通女を味わうという場合には、男性器の触感に頼らざるを得ない訳です。そして、それは粘膜がもたらすところの触感である訳です。女の性器を潤す液体の味が違うのは、その液体が血液でできているからなのです。そして、その血液は、日々口にする食物によって多大な影響を受けていることは、食事療法などがあることからも自明のことです。この女たちの尻、この女たちの乳房、この女たちの性器、この女たちの体、この女たちの全てをもっと私は味わいたい。味わいつくすとは、この女たちを食べてしまう以外に方法はないではないか!そう、思うのです」
客たちの間に、どよめきが起こった。教授が続けた。
「しかし、私は気がつきました。食べてしまえば、もう二度と味わうことはできないと。最愛の女を味わい続ける方法。究極の愛の作法についての結論はすでに食卓に供されています。金髪の女がチーズとミルクのみを、黒髪がマンゴーとパパイヤのみを一ヵ月間食べ続けた後の、二人の女の血と体液のエキスこそ、カナッペの二品なのです!」

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