第四話 ドライ・シェリー
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肥後橋のたもとを西に曲がり、大川沿いに少し行ったところに「中之島竹林亭」という、古くからある有名な料亭がある。
ここでは毎月第四月曜日に「吟醸酒で楽しむ料理の会」という催しが、その月毎に一つの蔵を選び、ちゃんと造られた日本酒を味わいながら、その日本酒に合わせた料理を楽しもうという趣向でおこなわれている。
田中は、以前からこの会にプライベートで参加していたのだが、今回は意気込みが違っていた。と言うのは、田中の会社の翌年の方針として、割烹料亭への売り込みが決定したからだ。
バー、スナック、レストランでの販売競争は熾烈を極めるとともに、過当競争が値引き競争を呼び、田中の会社のような中堅商社は苦戦を強いられていた。この状況を脱するための苦肉の策が割烹料亭への参入作戦という訳だった。
部長の松田に呼ばれた田中は、課長、係長を差し置いて、新規ルート開拓部隊のチーフに任ぜられ、特別の接待交際費枠も認められた。
田中にとって、その日は本気で山田との対決を始める日でもあった。
山田は、吟醸酒をひっさげて洋酒業界に殴り込みをかけて来た男だ。田中の会社の取引先でも最近、吟醸酒を扱うところが多くなったが、それに反比例してワインの売上は落ちていった。そして、気がつくと、全てが吟醸酒に入れ代わっていたという店までも現れ始め、それが、フランス料理店だったりするのでは、田中の会社としても安閑としていられる筈がなかった。
松田の命を受けて、建て直しに向かった取引先には、必ず山田が置いて行った吟醸酒があった。
会はいつも山田の独壇場で、洋酒を扱っている会社に勤めている田中がその場にいるのもお構いなしに、佳い吟醸酒がいかに佳い料理にピッタリと合うかを滔々と語るのだった。
「本当に佳いお酒というのは水みたいに飲めるお酒です。本当に佳いお酒というのは、散々飲んで帰ってから、もう一杯飲みたくなるようなお酒です」
これが山田の口癖だった。そして、いつも「田中さんとこ、そんなワインありますか」と水を向ける。
「シャンパーニュなら、通しで飲めますけど」
「あんなもん飲んでたら、腹一杯になってしもて、お料理食べられしません」
「辛口の白、例えば、ミュスカデ、モンラッシェあたりなら合いますけど」
「白ワインはお鮨に合うとか言うてはりますけど、要するにレモンとか、酢とかで口をごまかさなあかんわけです。とってもお造りなんかには合わしません。あっちの人たち、だいたい味覚が鈍いんと違いますか。日本人やったら日本酒、しかも吟醸酒。これやったら和も洋もOKや!」
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料亭の女将に板長、フランス料理店のシェフ、イタリア料理店のオーナー、クラブのママ、そしてグルメ自慢の男と女・・・。
どの客も皆、山田に挨拶しては席に着いていく。
田中が挨拶をしようと顔を向けると、誰もが視線をそらしてしまう。ワインから吟醸酒に酒を換えてしまった店の人々だからだ。
そうなってしまったのは、田中の会社のフォローが足りなかったことは確かなのだが、そうなってしまった決定的な理由は、やはり、山田の押しの強さと吟醸酒にかける意気込みの差だと認めざるをえないことだった。
「田中さん、今夜のお酒は格別ですよ」
「そうらしいですね。勉強させて貰います」
「田中さん、今頃から勉強はないでしょ。吟醸酒の旨さはもう十分ご存じのはずやと思いますけど。旨い酒、どんな料理にも合う酒いうたら、吟醸酒しかありませんのや。その証拠に、フランス料理のシェフにイタリア料理のシェフまで来てはりますやないですか」
「確かに」
「彼らは何しにここへ来てはる思います。料理に懐石の技を採り入れよう思てです。酒は吟醸酒で決まりな訳です」
「いや、僕は、この懐石に合うワインを探してるんですわ」
「そんなん、ある訳ありませんでしょ」
「・・・・さて、お時間になりましたので、そろそろ始めさせて頂きます・・・」
田中と山田の話に被せるように、料亭の支配人が挨拶を始めた。
「今回のお酒は、丹波の「子規」でございます。今夜は特に蔵元から社長様と杜氏さんにお越し頂いております。お酒に関するご質問がございましたら、何なりとお尋ねください。今夜は私どもも料理に一層力を込めたつもりでございます。それでは、ごゆっくりお楽しみください」
酒宴が始まり、緊張に包まれていた宴席も、杯を重ねるうちに打ち解けてくる。と、一人の客が、
「こんな美味しい日本酒は、飲んだことありませんでした。フルーティな香り、まるでワインみたい」
見ると、和服を上手に着こなした妙齢の婦人だ。きっと、どこかの料亭の女将なのだろう。
「お料理ともピッタリ合って、今夜の魯山人の器にも負けてませんわねえ」
「このお酒はお水とお米だけで出来てます。フルーティな香りは吟醸香と申しまして、醸造が上手くいったときに出る香りでございます」
山田が女の顔を見ながら、宴席の全員に聞こえるように話し始めた。いつものパターンだ。
「吟醸酒はお米を磨きまして、中心の美味しいところだけを使って仕込みをした贅沢なお酒でございます。お米とお水の持つ旨みが凝縮されたもの、それが吟醸酒です」
「ワインもブドウとお水だけで出来てるんでしょ」
4-3
女がなぜか田中に向かってそう問いかけた。田中は、一瞬山田の顔に視線を送り、
「いえ、水は使ってません。そして、ブドウを使って造っているからフルーツのような香りがある訳ではないんです。ブドウの種類が持っている香りをアロマって言うんですけど、熟成したときに出るブーケ、飲んだあと口に残るフレーバー、の三つの香りが渾然一体となってワインの味を決める訳です」
「まあ、お詳しいのね、この方」
女が流し目を送ってくる。
「で、吟醸酒の吟醸香というのは、ブーケに当たるんですか」
「日本酒の場合、酒造米にはブドウほど個性がありません。その米と水だけで造るんですから、ワインほど個性のあるブーケは出にくいんじゃないでしょうか」
「田中さん、それは違います」
山田が口をはさむ。
「お酒を造るには、もう一つ麹が大きく影響しますし、お米と麹とで出来た酒母からもろみを造って、仕込んでいくときの方法によっても香りは微妙に変わってきます」
「やめなはれ、山田はん」
声のした方を見ると、蔵元の社長が大きな目を見開いて睨んでいる。
「酒は旨かったらいいんです。講釈はいらん思うんです。個性言うんは、色々飲み比べてもろたら分かってくることで、好きな酒を飲んだらいいと思うんです」
席に着く前から出来上がっていた社長だが、話していることは確かなようだ。
「わしは酒のことは全く分からん素人や思てます。そやから、ここに杜氏を連れて来てますんや。わしは、この酒は丹波の黒豆によう合う酒や思てます」
「あの、田中さん、言わはりましたか」
社長の隣に座っていた物静かな杜氏が、田中の方を見て口を開いた。
「多分、味の差いうんは、酵母によって変わるんやと思います。ワインの味と香りに個性があるんは、それぞれの地方のブドウについている酵母のせいや思います。日本酒の場合は、それぞれの蔵についている酵母、これを家つき酵母いうんですけど、これが同じ米と同じ水で造っても差を生むんやと思います」
「わぁ、さすが杜氏さんですねぇ。お酒って難しいんですねぇ」
さっきの女が目を輝かせて杜氏を見つめている。
会は、料理を愛でることもお庭を愛でることも器を愛でることも酒を愛でることもなく終わった。
二次会に繰り出す山田と蔵元の社長一行の中に着物姿の女がいたのを横目で見ながら、田中は店を後にした。そして、ほろ酔いの中で忸怩たる思いにとらわれながら、耳を引きちぎられそうな川風の中を歩いて四ツ橋筋へと向かった。
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しばらく歩いた後、田中はバー「ワンナイト」のカウンターに座っていた。
マスターにシェリーを注文すると、ドン・ゾイロのフィノを出してくれた。ドライな辛口のシェリーを口に含み、香りを鼻に抜きながら田中は大きく息を吐き出し、つい先だってのことを思い浮かべた。
山田との対決を決意したにもかかわらず、初日に結論が出てしまったような気がした。田中にとって山田は一枚も二枚も上手の相手なのだということを悟らされてしまったからだ。
煙草に火をつけ、二杯目のシェリーを飲み終えたとき、カウンターの客たちの視線が動いて、入口に向けられた。田中が入口に顔を向けると、和服の女がにこやかな笑みを浮かべながら近づいてきて、田中の隣に腰掛けた。
「やっぱりここだったんですね」
「どうしてここが分かったんですか」
「山田さんが、多分ここだろうって、教えてくれたんです」
「山田さんが?ご一緒だったんじゃないんですか」
「ええ、途中までご一緒したんです。でも、蔵元の方とご一緒にゲイ・バーに行ったんですけど、私はお邪魔なようなので失礼しましたの」
「で、どうしてここへ」
「田中さんに相談した方がいいっておっしゃって」
「相談って、何をです」
「私のところで吟醸酒かワインを本格的に扱いたいって言ったんです。そしたら、ワインにしなさいっておっしゃるんです」
「どういう意味なんですか」
「つまり、ワインも扱ったことがないような店じゃ吟醸酒は無理らしくて」
田中は、もう一杯シェリーを注文して、
「で、どうすればいいんです?」
「ちょっとつき合ってくださらない?」
タクシーに乗り込むなり、女は「有馬温泉」と行き先を運転手に告げた。
有馬温泉のその老舗旅館には四十分程で着いた。女は、フロントを素通りし、長い廊下の一番奥のスイートルームのドアを開けた。部屋の中は空調がちょうどいい具合に効いていた。
「お風呂、先に入って下さい。男風呂は右手の方にありますから。お夜食とお酒、頼んでおきますね」
金泉と呼ばれる有馬独特の濁ったぬるいお湯につかり、生け垣の上に輝く月を眺めながら、田中は、女がタクシーの中で言ったことを思い出していた。
山田は酒のことにしか興味がないこと。蔵元の社長と一緒に、吟醸酒を置いて貰うために一軒一軒店を回って歩いたこと。今ではロイヤルホテルの地下の割烹にまで吟醸酒が置いてあること。蔵元の社長とゲイ・バー通いをしていること。そこまで考えたとき、不意に女の体が田中の視線を遮った。
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寒月の下、青白い月光を浴びて女が田中を見下ろしている。着物を着ていたときには気づかなかったが、腰高の鳩胸をしている。
「お酒、飲まはるでしょ」
女は、燗酒の徳利が一本と猪口が二つ乗った盆を持ってお湯に入ってきて、田中の隣ににじり寄る。
「月見酒ですか」
田中は女の酌を受け、一口飲んで顔をしかめた。
「ここら、いいお酒はあんまり売れしませんの。団体客ばっかりで。そやけど、私、ちゃんとしたお酒出そう思てるんです」
「出そう思てるて」
「私、ここの女将なんです。今度新館が出来るんですけど、そこで、吟醸酒とワイン出そう思てるんです。旅館もお客さん本位でいかなあかん思て」
女はそう言いながら、お湯の中に投げ出した田中の脚の上に乗ってきた。
「山田さんのことは、本で読んだことがあったんです。連絡したら、竹林亭のこと聞かされて・・・」
女は、田中の腰に手を当てて体を支え、田中の物を自分の物で擦りながら話し続ける。
「・・・とにかく、私、やりたいんです」
田中は、お湯の上で揺れている盆を右手で肩ごしに湯船の縁に置いて、女の尻に手を回した。
「こんな酒しか出してないような旅館やったら、ワインでも難しい思いますけど」
「私、頑張ります。教えて下さい」
女は腰を浮かし、田中の物を自分の中に収めようとするが、愛液がお湯で洗い流され、浮力も手伝って思うにまかせない。
「和食ですよね、お料理は」
「ええ、洋食やったらコックさん雇わなあきませんし、当面は懐石に合うお酒いうことで考えてます」
「懐石に合うワインいうことですね」
田中は自分の物を握り、女の腰が浮き上がらないように押さえつけながら収めるべき部分を探した。
ふわふわと漂うような感触の中、水圧がかかったり引いたりしながら恥骨どうしがぶつかりあい、女のヒダが奥に吸い込まれたり、外にはみ出したりを繰り返している。
「女将さん、本当にやらしてくれますか」
「お願いします。私、本気なんです。ワインやったら田中さんやと・・・」
「女将さん、そっから先は言わんといてください。僕も頑張りますけど、女将さんも頑張る覚悟してくださいよ」
「分かってます。お約束します」
田中が乳房を交互に口に含む頃には、女の体は田中から離れ、アップにしていた髪がほどけてお湯の中に浸かるほどのけ反っている。
「お願いしますね!田中さん、お願いしますね!」
女はそう叫びながら田中にもたれかかってきて、耳元でささやいた。
「私、会うたときからこうなる思てました。今夜は泊まって、明日、一緒に朝御飯食べてください」

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