第十三話 シャトー・ド・クルセイド
13-1
「ボンジュール、ウタマーロ」
ミッシェルの明るい声で田中は目を覚ました。
眠い目をこすりながら体を起こそうとすると、ミッシェルがシーツの中で田中の物を引っ張って起き上がれないようにしている。昨夜は腰が抜けるほど愛し合ったのに、ミッシェルはまだ田中の物に興味を示しているようだ。
「ワァオ、もうこんなになってますね」
「違うんや、オシッコに行きたいだけなんや」
「嘘でしょ。私、やっとマリアンヌとカトリーヌの言っていた意味が分かりました。私、とってもオクテなんですね」
「どこがオクテなんや。君だけは違う思とったんやけどなぁ」
「私、目覚めました。日本の美学、素敵ですね」
「あかん、もう堪忍して」
その言葉とは裏腹に元気になってしまった自分の物を恨めしく思いながらも、田中はミッシェルの体の中に朝の挨拶をした。
ドアが開き、執事が朝食を運んできたが、うごめくシーツを横目に、
「朝食が済んだらシャトーの見学を始めますので、手短にお願いします」
と丁寧に言って出ていった。
「さて、お疲れのところ恐縮ですが、今回のツアーの本題である私のシャトーを案内し、今、私が熟成中のワインを試飲して貰いたいと思います」
ロートシルトが説明を始めても、田中の腕を取ったままベッタリと寄り添うミッシェルを見て、マリアンヌとカトリーヌが呆れ顔になっている。ロートシルトが続ける。
「このシャトーは、千年ほど前からワインを造っていたのですが、名前をシャトー・ド・クルセイドと言います。ヤッサンご存じですか?」
「そのままの意味は、十字軍の城ということになりますが」
「ウィ、そのとおりです。エルサレムに向けて遠征に出掛けた十字軍の兵士たちがここに集まって出発した城です。ワイン造りは、無事に戻ってきた兵士が持ち帰った中近東のブドウの種を育てることから始まったといわれています」
「ムッシュー、確か、コート・ド・ローヌ、エルミタージュのシュバリエ・ド・ステインベルクという白ワインがそうではなかったかと」
「ウィ、ウィ、ウィ!ヤッサン。そのとおり!白ワインなのに長期熟成に耐える不思議なワインです」
「それで、貴方の買われたシャトーがそれだと」
「ノン、違います。私がこのシャトーを買ってまだ十年にしかなりません。ですから、まだ無名です。ただし、樽の中ですでに十年の眠りをむさぼったワインが地下のカーヴに寝かせてあります」
「十年前からすでに計画は実行されていたわけですか、ムッシュー」
「ウィ、ヤッサン。私が探していたのは良きパートナーです。ワインの十字軍に参加してくれるね」
13-2
一階の広間はまるで博物館だった。当時の鎧や武器、男女の洋服、食器類、家具類などが展示してあった。大きな額に入った絵画も並んでいた。色々なガラスで作られたオールドファッションドグラスや金銀銅で作られたワイングラスもあった。
とりわけ、ガラスのショーケースの中に整然と陳列されていた鉄と革とで作られた貞操帯は、当時の男の心理と女の地位とを象徴する、オブジェになりきれない存在感をもって田中に迫ってきた。
石段を下りていくと武器庫があり、牢の跡らしい部屋があった。白亜質の岩をくり抜いて造ったその部屋は、天井に向かって美しい曲線を描きながら柱が数本しつらえてあり、柱には大きな鉄の鎖が取り付けられていた。身分の高い者を収容するのに使用したらしいその部屋を覗いていると、当時の姿のままの囚われ人の姿が浮かんでくるかのようだった。
隣は拷問の部屋だった。分厚い鉄製のドアの格子から覗くと、所々に黒く変色した血の染みのついた時代がかった拷問の道具が並んでいるのが見えた。この城までは来たものの、長い遠征の旅に恐れをなした者をいたぶったのか、それとも捕虜のための物だったのか。
そのフロアからまた石段で下に下りると細長い部屋がまるで地下鉄のトンネルのように闇に吸い込まれているのが見えた。
「この城を造るために、ここから石を切り出したのです。今は貯蔵庫に使っています」
ロートシルトがそう言いながら電気を点けると、そのトンネルの中に無限に並ぶかと思われるほどの樽とボトルが浮かび上がった。
「この貯蔵庫は深さ二十メートル、長さは二キロメートルあります。樽の数は二千ですが、あとその倍は寝かすことができると思います」
平然と説明するロートシルトの顔を薄暗い照明の中で見ながら、「やはりただ者ではない」と田中は思った。
世界の赤ワインの頂点、シャトー・ラフィット、シャトー・ムートンを手中にしたロスチャイルド家の長男が目指す新しいワインとは何か、ワイン界を救う十字軍として何をもくろんでいるのか。田中は、延々と続く地下のカーブの中で眠るワイン樽とボトルを見つめながら、鳥肌が立つような興奮を覚えていた。
「ムッシュー、テイスティングは今からやるんですか?」
「ノン、今日はしません。少し待ちましょう。ヤッサン、ウタマーロ、鍵を出してください」
田中と安川部長が言われるまま鍵をポケットから取り出してロートシルトに渡すと、 「これは、私の鍵です。三つともここに置くことにします。三日後、またここで会いましょう」
ロートシルトは鍵を近くの樽の上にきちんと並べて置きながら、田中と安川部長に言った。
「娘たちは今日から三日間、風呂もシャワーも禁止にしてください。よろしいですね」
13-3
「ナポレオンが寝言で『ジョセフィーヌ、今夜はもう疲れているから寝るよ』と言ったとき、その枕元にあったのがこのチーズだと言われています」
ロートシルトが目の前に盛られたロックフォールを口に運びながら赤ワインを口にした。ワインは、シャトーヌフ・ド・パプの八五年だった。
「英語ではニューシャトー・オブ・ポープ、法王の新しい城と言う意味です。十四世紀にローマ法王庁がアヴィニョンに移された。いわゆるアヴィニョン幽囚事件がそのシャトーの名前の由来です」
安川部長が説明を終えると、全員から拍手が沸いた。
「皆さん、この組み合わせをじっくりと味わって、よく覚えておいてください。チーズの香り、青かびの刺激、塩味の濃さ、歯触り、ワインと合わせたときのふくらみ、そして最後に残るフレイバー」
翌日、ロートシルトのシャトーから執事の運転する車で、田中たち一行はローヌ川の河口に位置するロックフォール村を訪れた。
ロックは岩、フォールは城砦を意味し、数千年前に大噴火したカンバルー山の天然の洞窟の中で熟成されるナチュラルチーズの頂点、ロックフォールがこの村で造られている。
年間を通じて湿度は高く温度は低い洞窟の中には行儀良くロックフォールが並び、食卓に供されるときを待っていた。
一切の科学的手法を拒み、自然の力だけでチーズを造りだそうとするその情熱と洞窟の中の匂いとに田中は圧倒されてしまった。
「ウタマーロ、どうしたんですか?このチーズとこのワインの相性は良くありませんか?」
「いや、そうやないんですけど、強烈すぎるんですわ、この匂い」
「これがフランスの食のエスプリです。チーズがワインを求め、ワインはよりチーズの持つ芳醇さをふくらませ引き出すのです。どちらが欠けても成立しない。補い合うのではなく、高め合う存在、ドイツ語で言うところのアウフヘーベンの世界です」
「日本にも、鮒鮨とか、クサヤとか醗酵食品がありますけど、僕は、どうも肥たんこの匂いみたいな気がしてあきません」
「おやおや、それは困りましたね。私もヤッサンに教えてもらってフナズシは食べたことがありますけど、ちっとも満足出来ませんでした。コクが足りないんです。ウォッシュタイプのチーズに近い匂いはしますけどね」
「私は、フレッシュタイプが好きよ」
「私は、白カビタイプのカマンベールが好き」
「私は、シェーブル」
「おやおや、女性にはモテないようですね。ムッシュー安川はどうですか?」
「私は、ソーテルヌのような甘い白ワインに合わせてみたいような気がしますが」
「フーム、それもいい味わい方でしょうねぇ」
13-4
三日の間、ロートシルトのシャトーで昼間はワインの味比べをし、夜は街のレストラン巡りをしたせいで、田中と安川部長の二人は食べることにも飲むことにもすでに興味を失いかけていた。
レストラン巡りといっても一晩に三軒を梯子し、それもフルコースで最後まで平らげるというハードスケジュールだ。それでも、ロートシルトと娘たちの食欲は凄まじく、他に何もすることのない腹いせのように飲んでは食べ、食べては飲んだ。まるで最後の晩餐とでもいわんばかりの食欲だった。
「さて、今日で丸三日がたちました。今夜はいよいよ私のシャトーでの最後の夜ということになりますが、きっと最後に相応しい夜になることでしょう。まずは、カーブに行ってワインを試飲しながら選ぶことにしましょう」
ロートシルトに連れられて地下への石段を下りていくとカーヴの通路にはテーブルがしつらえられていた。
「さぁ、気に入ったワインを選んで持ってきてください。ここで飲み比べてみましょう」
延々と続く地下のカーブを歩きながら、田中と安川部長は気に入ったボトルを選んでいった。後にはワゴンを押しながら執事がついてきた。
カーヴには奥の方から新しい樽とボトルが並べてあった。一九九〇年というプレートの前まで行ったとき、ロートシルトが戻るよう合図した。
「これから先の物はまだワインになっていません。もう少し、静かに寝かせてやる必要があります」
田中と安川部長の選んだワインがテーブルに並べられた。安川は赤とロゼと白を一本ずつ、田中は赤を二本と白を一本選んだ。ロートシルトは瓶詰めする直前のワインを三種類、樽からカラフに取った。執事が手際よく栓を抜いてグラスに注いでいく。
「さて、やってみましょう。ラベルが貼ってありませんから、ご自分の持ってきたワインはどれかよく覚えておいてくださいよ」
そう言われて田中と安川部長は自分の前にそれぞれ持ってきたボトルを並べた。
「ヤッサンの選択ですね。飲んでみてください」
ロートシルトは次に三本のワインの中から一本だけ一番気に入った物を二人に選ばせた。田中は芳醇な香りと深い味わいの赤を選び、安川部長はしっかりと腰があり奥行きのある白を選んだ。
「ほほう、ヤッサンとウタマーロは対照的な選択をしましたねぇ。じゃ、これを飲んでみてください」
ロートシルトはそう言うと、カラフから別のグラスに三種類のワインを注いだ。
「どうですか、ヤッサン?」
「十分飲めます。でもまだ成長する可能性がある」
「若いのか壮年なのか、よく分からない」
「最大のほめ言葉です。ボルドーは赤、ブルゴーニュは白が長期熟成に耐えるワインです。私が造ろうとしているワインはそれよりも長生きするワイン、五十年、百年と生きることのできるワインです」
13-5
「ムッシュー、しかし、コート・ド・ローヌにはそんな長期熟成に向くワインはないはずですが」
「ヤッサン、だから造るのです。今、まさにできようとしているのです。このシャトーでね」
「シャトーヌフ・ド・ロートシルトいう訳ですな」
「ははぁ、それもいいですね。ラベルのデザインもそろそろしなければなりませんし、名前も考えなければいけませんからね」
「シャトー・ムートンは毎年ラベルに画家を使ってますね。古くはピカソにミロまで描いている」
「そして、その代価はムートンのワイン。そう、父親のやり方です」
「ロートシルト美術館に対抗してこの城の展示をされたのですか?」
「ノン、古いものを残したいだけです」
「ムッシュー、父上も確かそうおっしゃってシャトーを買い上げて維持していらっしゃる」
「ヤッサン、私は父親のやり方が嫌いなんです。金と権力に物を言わせるやり方がね」
「ムッシューロートシルト、準備が整いました」
執事がロートシルトにそう告げた。
「さて、では上のテーブルに移りましょう。ワインは運ばせますから、置いておいてください」
ロートシルトに連れられて石段を上がり一つの部屋に通された。その部屋にもテーブルがしつらえてあり、グラスと小さな金のスプーンの乗った白い小皿が置いてあった。
長方形のテーブルの中央には木製のバーが端から端まで差し渡してあり、白い布を掛けた小山が三つテーブルの上に乗っている。
「ワインと言えばチーズです。やはりこの組み合わせで味わってみないと本当にいいワインかどうか分かりません」
田中は、ロックフォール村の洞窟の中の棚に積み上げられていたチーズの固まりを思い出した。
「さて、そのスプーンで各自少しずつ取って試食してみてください。スプーンをお湯で温めることを忘れないように。体温と同じ温度にしてあります」
ロートシルトに言われるままスプーンをフィンガーボールのお湯で温めていると、チーズの山が動いた。動いて脚を突き出し、バーに乗せた。
「さて、チーズの出来をみてみることにしましょうか。ここに三つ、鍵があります。お好きなのを取って開けてください」
テーブルの中央のバーに両脚を乗せたチーズを、三人の男は金のスプーンをお湯で温めては味わい、味わってはワインを口に含んだ。次に順番を入れ代わり、比較して最も気に入ったチーズを決めた。
「さあ、布をめくってみてください。それが貴方の選んだワインと最も相性のいいチーズです」
「メルシ、ウタマーロ!」
そう言って布の下から現れたのはマリアンヌだった。安川部長はミッシェルを選んだ。ロートシルトはそれを見てゆっくりとカトリーヌの布をめくり、
「パリでの組み合わせがこれで決まりましたね」

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