第十八話 グラン・ヴァン

 




18-1

契約が終わった夜、田中は麻子の泊まるアイランド・シャングリラの割烹「灘万」で久しぶりの日本料理を堪能していた。

ロートシルトは契約を終えると美知子の待つフランスへ戻り、社長を始め社員全員は夕方には帰国してしまって誰も残っていなかった。


これから田中が命を懸けて売っていくことになるワイン「ミチコ・モナムール」と吟醸酒「美知子」を交互に飲みながら味わう割烹の味は格別だった。


「僕ら、どないなるんでしょうね、ママ」


「一郎ちゃん、どないもなれへんよ。ずっとうちら一緒や。うち、一旦決めたら変えへんのやから」


「そやけど、僕、こっちで働いててママは大阪で店やってたらなかなか会われへんやないですか」


「何言うてんの、すぐやないの大阪と香港なんか。毎週でも来れるわ。それより、あんたの浮気性の方が心配やわ。うち、お店やめてもええんよ」


「やめてどないしはるんですか?」


「アホ、あんたと暮らすんやないの。子供かてほしいし」


麻子は、田中の顔を見据えて真顔でスラスラと答えた。


「お母はんみたいになりとうないんよ、うち」


「え?」


「お母はんは意地張ってとうとう結婚せぇへんかった。好きな人がおったのに」


「まさか、それがうちの社長ですか」


「いや、あの社長はパトロンや。好きな人は別におったんや。とにかく、うちの幸せだけ考えてのことや言うてせぇへんかったんよ。そやけど、うちはそんなん嫌や。好きな人おったら結婚すべきや思う」


「僕なんかあきませんわ」


「そや、あんたはあかん。そやからうち、あきらめるわ、あんたのことは」


「ママ、パトロンいてはるんでしょ」


「おらん。うちはお母はんのこと見て育ったからパトロンは持たんことにしてるんや」


「ほな、自由ですやん」


「そうや、うちは勝手気儘に生きてきたんや。そやから、これからも勝手気儘に生きていくわ。ただ、最近淋しいな思うこともあるんよ」


「へぇ、ママらしゅうもないこと言わはりますね」


「ちょっぴり淋しい旅の空、言うやっちゃな、きっと。アハハハハ」


「飲みましょ、ママ。このワイン、よう料理に合うてますわ。グラン・ヴァンいう奴ですな。どんな料理にも合う偉大なるワインですわ」


「あんた、ほんとにワインのことにしか興味ないんやね」


「ワインと料理がピッタリ合うたときのことをマリアージュ、結婚言うんですけど、ほんまにピッタリや」


「一郎ちゃん、うち明日の朝帰るし」


「僕、明日の昼の便やし、送って行きますわ」


「ええわ、うち一緒に来てる人おるし」


18-2

その夜、田中はまんじりともせずにベッドの中にいた。

タクシーで海底トンネルを通って九龍に戻り、バーで数杯のジン・リッキーを飲んだのに眠りに落ちて行くこともなくますます頭が冴え渡って来る。


なぜ戻って来てしまったのだろう。なぜ、あの後麻子の部屋に上がって行って一緒に来ている男を確かめなかったのだろう。酔いの回った頭は今頃になって肝心なことを考え始めたようだった。


田中は枕元の電話で麻子のホテルに連絡した。下手な英語で麻子のフルネイムを告げたが、そんな客は泊まっていないと言う。


そんな筈はない。ついさっき割烹料亭のテーブルの上に麻子はルームキーを置いていた。部屋番号は何番だったか?確か四桁だった。そうだ、自分の部屋番号とよく似ているなと思ったのを思い出した。


田中は思い出した番号をメモするとフロントにタクシーの手配を頼んで着替えを始めた。


深夜を回ったホテルはシンと静まり返っていた。田中は念のためロビーから部屋に直通の電話を入れてみたが誰も出なかった。麻子は眠ってしまっているのか、それとも誰かとその最中なのか。酔いの回った田中の脳裏に麻子の裸体がよみがえった。


エレベーターに乗り、目的の階で下りた。長い廊下が続いている。音を立てないように部屋に向かって歩いていると、自分の呼吸音がやけに大きく耳に届いて来るのが分かる。


部屋の前に着いた。番号を確認してチャイムを押した。しばらく待った。応答はない。またチャイムを押す。応答はない。


田中はチャイムを押す間隔を短くし、鳴らし続けた。部屋の中はシンと静まり返ったままだった。田中はドアを軽く叩いた。そして、ドアと壁の隙間に向かって言った。 「ママ、僕や。田中です」


そう言いながらドアを叩いた。ドアを叩く手にだんだん力が入ってきて、最後にはドンドンという音が廊下に響き渡っていた。それと同時に声も大きくなっていた。


「麻子ママ、僕や、田中や。会いたいんや、今!今すぐ会いたいんや。出てこい麻子。誰とおるんや!麻子!愛してるんや。お前のこと好きや。僕と結婚してくれ。お前は僕のグラン・ヴァンなんや。最高なんや。頼むわ、麻子!麻子!」


誰かが電話したのだろう。警備係の男が二人、田中の方に向かって走って来るのが見えた。


田中はそれを横目に見て、なおもドアを叩き声を上げ続けた。警備係は始めは英語で喋っていたが、そのうち広東語になり、すぐに体に物を言わせて田中を引っ立てようとした。


そのとき、ドアのロックが外れる音がして、麻子が顔を覗かせ、田中の目を見て言った。


「やっと、うちのこと麻子て呼んでくれたんやね」


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