第十七話 ヴァン・ド・メゾン
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田中たち四人は海底トンネルを通って香港島に渡り副社長と専務とが待つ「福臨門酒家」に向かってタクシーを走らせていた。
いくら何でも急すぎた。今日明日はゆっくりとフランスの疲れとチーズの匂いを落とし、安川部長と二人で中華とワインの相性をチェックして出張の結論を出そうと思っていたところに突然の予定変更である。この先、何が起こるのか田中には全く予想がつかなかった。
おまけに、安川の知っていることといえば、ホテルの部屋にかかってきた二本の電話の内容だけである。一本はムッシューから、もう一本は専務からだったと言う。
二本の電話の内容を総合すると、どうやらムッシューは思っていたよりも性急にことを進めようとしているらしく、しかも社長もその意向を示したらしかった。現地打ち合わせは明日の内には行われるようで、その現地打ち合わせには田中と安川の同席が求められている。だからこそ、今夜その全段階のミーティングとして専務と副社長が急遽やって来ているのだということだった。
全く知らない間に事は進んでいた。おまけに、もう一つ気に入らないのは、麻子がこのことを知っていたということだった。
ままよ、行けば行ったでどうにかなるさと思いなおし、田中は「福臨門酒家」の門をくぐったのだった。
「それじゃ後で」と言って麻子と安川の妻とは奥へと入って行き、残された二人は係に案内されて別室へと向かった。
「まぁ、これはすでに決定事項だということを理解して貰いたいんだ」
「どこからそんな話になるんですか専務」
「いや、急な話であることは百も承知だ。しかし、これは我々役員の間では時間の問題でもあったし、急を要する懸案事項でもあったんだ。そして、今回のロスチャイルド氏の申し入れをわが社は受けた」
「ああ、専務。もういいだろそういう話は。とにかく、返事を聞かせて貰いたい。私たちはそのために急遽ここまでやって来たんだからな。安川部長」
「はい。明日かどうかは別にいたしまして、中長期の経営判断といたしましてはいずれそのような動きを取らざるを得ないだろうと思います」
「それで、OKですか?安川部長は」
「はい。大変名誉なことだと思っております」
「おお、よく言ってくれました」
「ただし、一つ条件があります」
「ほう、何ですか」
「私の就任の如何は、この田中君の意向如何に掛かっていると申し上げたいのです」
「それそれ、不思議なことなんだがそれがロスチャイルド氏の意向でもあるんだ。営業三課の落ちこぼれで、いまだに主任の田中君と君とペアにしろと言うんだからな」
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「僕は納得出来ませんわ、そんな話。僕は帰って日本市場の開拓をせんならんのです。そのために本場の勉強してきたんです」
「ああ、その件ね。あれ、林田課長に責務を移管しました。勿論、松田部長も了承済です」
「そんなアホな。僕、松田部長からも林田課長からも何も聞いてませんがな」
「そりゃ、当然でしょう。こんな緊急事態の中で私たちが直接君たちに話をしているような訳なんですから」
「無茶苦茶ですがな、そんなん。サラリーマンは何も自分の意思で動けんのですか」
「たいがい好きなように動いて来たと思うがね、君は。それに、こんな話を断るような理由はないだろう君には」
「そ、そらまぁ」と言いながら田中の胸をよぎったものがたった一つあった。
「麻子さんやったら了承済やで」
その声に副社長と専務がテーブルに脚をぶつけながら立ち上がった。つられて安川部長も立ち上がった。
「社長!」
田中が座ったまま振り向いて顔を見た。
「あれ、あんたは」
「あんたはじゃないよ!社長だ」
「まぁ、ええ。座んなはれ」
「はっ、はい」
「麻子さんのことはな、よう知っとるんや。わし、あの人のお母はんの事もよう知っとるんや。それに麻子さんがあんたのこと応援しとるんも知っとる」
社長はゆっくりと椅子に腰掛けながら田中の顔を覗き込んだ。その顔は、クラブ「千夜」で声を掛けられた白髪の初老の紳士だった。
「あんたはよう飲むし、よう女子遊びもする。そやけど、熱心や。本気や。おまけにみーんな仕事に結びつけとる。副社長に見習わせたいわ」
「社長!」
「うちの会社もワインやったらたいがいの会社には負けへんくらいになった。そやけどな、それに安閑としとったらアカンのや。これからは国際競争力がなかったらアカン。そのために香港に会社作るんやがな。協力して、な」
「は、はぁ、まぁ」
「ほな、あっちで飲もか。皆待っとるやろ」
宴会場で田中たちを待っていたのは、割烹参入プロジェクト、PKOのメンバーだった。
大林チームリーダー始め、飯島、吉田、関口の四人。松田部長もいる。林田課長に大森係長もいる。麻子ママ、クラブ「千夜」のマダム、ベルサイユの加奈子ママ、有馬「下の坊」の女将、下寺町「味覚寺」の住職、「子規」の社長に杜氏である美知子の父親、それに山田までが顔を揃えている。
田中はその顔ぶれを見て、どうして大林からホテルの部屋に電話があったのか理解した。
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社長たちが上座に、田中が大林チームリーダーの隣の席に着くと座は一気に盛り上がった。
「お帰りなさい、主任!」
「おい、香港支社長、ちょっとこっちに来たまえ」
「田中主任、お疲れさん。今夜は君の慰労会も兼ねてるからゆっくり楽しんでくれたまえ」
「ご栄転おめでとうございます!」
「ちょ、ちょっと待ってぇな、どないなってるんや一体。大林君、説明してくれ」
「第三回目のテイスティングの会と、山田さんの吟醸酒の会とを合同で行ってるんです。それと安川部長と主任との慰労会と栄転祝いも重なってます」
「いつの間にそんなことになってるんや」
「私の一存で決めたんだよ、香港支社長」
「林田課長がですか」
「そうです。吟醸酒の会が香港に行くっていうんで負けてられないと思ったわけですよ」
「何も聞いてませんがな、そんなこと」
「電話の一本もしない人間が今頃何を言ってるんですか。とっくに辞令は出てるんですよ。私が今やプロジェクトリーダーなんですから」
「いつからですか?」
「二日前からです」
「大森係長、本当ですか?」
「うん、本当だ。君が抜けた後は全面的に林田課長が引き継ぐことになったんだ」
「松田部長、本当ですか?」
「私も賛成したんです。田中君の栄転にはね。安川部長からも聞いて貰ってるはずですが、今回のフランス行きにはロスチャイルド氏の意向を確認するという目的があったんです」
「さぁ、前菜も出ましたしそろそろ始めませんか」
山田が立ち上がって喋り始めた。
「今回は中華と吟醸酒、そして中華とワインの味比べいうことです。私の会ではもう何回かやってますけど、こちらのプロジェクトの方も今回はご一緒にいうご依頼で仲ようやろういうことです」
会は和やかに始まった。山田は数種類の吟醸酒を持ち込んで料理に合わせていた。大林たちは、このレストランのワインリストの中から数種類を選んで料理に合わせた。中国のワインの実情を把握するためにはそれはいい考えだ。特に、その店のハウスワインであるヴァン・ド・メゾンを飲んでみればだいたいのレベルの見当がつく。
会は順調に進み、ネズミハタの清蒸、子豚の丸焼き、北京ダック、イセエビのスープ蒸し焼き、フカヒレの姿煮、アワビの蒸し煮、キヌガサダケのツバメの巣詰めまでいったところで「子規」の社長が大きな目を見開いて田中に話しかけてきた。
「田中はん、わしんとこも海外に進出することが出来て、こんなうれしいことはありません。自信を持ってフランスの人や中国の人に飲んで貰える吟醸酒を造って行きたい思てます」
「フランスの人に飲んで貰える吟醸酒ですか?」
「へぇ、独占販売権お渡ししましたやないですか」
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佛跳牆が出た。広東料理の神髄ともいわれているこのスープは田中も初めてだった。
フカヒレ、干しアワビ、魚の浮袋、ナマコ、シイタケ、トリ、ハクビシン、朝鮮人参、山椒魚、冬虫夏草、クコなどを壺に入れて蒸した料理なのだが、素材が奏でる透明なハーモニーは絶妙である。
「わし、このファッチュージョン狙てましたんや」
「味覚寺」の住職がよだれを垂らさんばかりの顔をして田中に話しかける。
「修行中の坊さんが塀を跳び越えて食べに来る、いわれるくらいやから、ご住職がそない言わはるのも分かりますわ」
「これ飲んでたら、ワインも般若湯も何もいりまへんな。麻子さんはどないです?」
「うちもそう思います。何もほしない。今のうちの気持ちと同じや」
麻子はそう言いながら田中に流し目を送った。田中はそれをそらしながら、大きなテーブルを囲むこの夜のメンバーを見回し、自分が浦島太郎になってしまったのではないだろうか、と思った。自分だけが何も知らされないまま、回りの風景が一変してしまったような錯覚にとらわれた。一瞬回りの人々の声がかき消され、無音の映像だけが目の前に流れているような気がした。
クラブ「千夜」のマダムが笑いかけて何か言っている。あの店を紹介してくれたのは麻子だ。そしてあの店に来ていたのが社長で、しかも一度は田中にワインとシャンパンを注文してきたこともある。その社長と麻子は古くからの知り合いらしい。何もかもが麻子に関係している。麻子のてのひらの上で全てが動いている・・・・。
「・・・主任、主任、田中主任!」
「あっ、ああ。何や?大林君」
「この店のワイン、何か気づかれませんか」
「うん、まあまあいけるんと違うか」
「ここのヴァン・ド・メゾン、フランスで壜詰めしてないんですよ。ホラ、見てください」
「お、ほんまや。ラングドックのワインを樽で買うてブレンドしてあるんやな」
「中国でももうこんなことやり始めてるんですね」
「そうか、ラベルが漢字やったから中国産のワインかと思てた。そやけど、このやり方やったら旨いワインはでけへん。日本酒の造り方と一緒や」
「主任、本物の美味しいワインを提供するのが私たちの使命ですよね」
「ああ、そのとおりや。本物を知らなんだらそれこそ不幸や。せめてワインくらいは本物を飲まなあかん。偽物を本物やと思わされてたらたまらんで」
「主任!」
「僕にそれをやれ言うんかいな、君も」
「主任、僕にも何かお手伝いできることありませんか?」
「主任、私たちPKOのメンバーは田中主任の部下だったことは決して忘れません」
「そうか、君ら僕を応援してくれるんやな」
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「まず、この二本を徹底的に売る事から始める事になります。いいですか?ヤッサン、ウタマーロ」
翌日の昼下がり、飲茶をつまみながら六人の男たちが丸テーブルを囲んでいた。
丸テーブルの上には二本のボトルが置いてある。一本はワイン「ミチコ・モナムール」、一本は吟醸酒「美知子」だ。
「ワインは中国と日本に、サケは中国とフランスに売ります。その中心になるのが二人にやって貰う業務です」
ロートシルトは淡々と話し続ける。フランスにいたつい二日前の面影は消え、クールでドライなビジネスマンの横顔を見せている。
「来月の一日が業務の開始日です。日本でも新年度の始まりだということですから。それに、その日はエイプリル・フールで、事業を起こすにはとてもいい日だと思います」
「冗談で済むいうことですか?」
「ウタマーロ、私は冗談は嫌いです。私は十年も前からシャトーを買い、パートナー探しをしてきたんです。失敗は許されません」
「僕が気に入らんのは、何もかんも自分の思うようになる、思てるところや。金と権力にモノ言わせとるんと違うんですか」
「それは違います。料理とワインの相性、これをフランスではマリアージュと言います。つまり結婚という意味です。人と人との相性となると、ワインと料理の相性以上に重要なことは言うまでもありません。ウタマーロ、貴方は私の特訓をパスしました」
「それが気に入らん言うんや。人を試すようなことしてからに」
「許してください。しかし、今日から私たちはもうパートナーです。ワインの十字軍は来月からスタートするのですから」
「僕とやっさんと二人だけでですか」
「しばらく我慢してください。すぐに私の方から三人の女子社員を派遣しますから」
「三人て、まさか」
「そうです。特訓に参加した三人。カトリーヌ、ミッシェル、マリアンヌです。マリアンヌはウタマーロとすぐにでも働きたがってます」
「そんなアホな。あの娘たちも特訓に参加してた言うんかいな」
「計画どおりに実行するのが私のやり方です」
「計画どおりに行かんこともあるやないですか。美知子さんとは結婚しはるんですか」
「勿論です。私の最も大切な人生の伴侶になってくれると思います。結婚式にはご招待しますよ」
田中の会社「帝国ワイン社」とロートシルトの会社との合弁会社設立に関する契約は滞りなく終わった。
あれよあれよという間に、田中は日本の会社のチャランポラン営業マンから香港の合弁会社の責任あるポストに移行することになったのだった。

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