第十六話 ヴァン・ド・ペイ
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林立する高層ビルをかすめるように機体は急降下を始めた。
突然のように眼前に現れた近代建築に囲まれて、香港啓徳国際空港は九龍のビル街のど真ん中に位置している。
空港を出て、タクシーで通る限りにおいては、いつもと何も変わることのない活気に溢れた街と人々だが、一九九七年の中国本土返還を控え、見えないところではさまざまな駆け引きや準備が着々と進んでいるに違いない。
田中と安川部長は、九龍にあるカオルーン・シャングリラホテルに向かうタクシーの中で、日本に一歩近づいたという安堵感に包まれていた。
「やっさん、やっと着いたいう感じですね」
「うん、やっぱりアジアに変わりはないなぁ。匂いが違うよな、パリとは」
「やっさん、僕ら、ちょっと匂いに敏感になってきたんと違いますか」
「そうかも知れんな。あれだけ特訓されるとな」
「あれ、特訓やったんですか?」
「そうとも。まあムッシュー独特の方法なんだと思うが、とにかく、徹底して飲むこと食べること味わうこと、それが本質を極めるための近道だ、というのがムッシューの論法なんだ」
「なるほど。そのとおりでしたわ、ほんまに。最後はもうどうなるか思いましたわ」
「それで田中君、君は見事合格した訳だ。ワインにかける情熱に対して、君は折り紙つきという訳だ。これで僕も安心したよ」
「へ?何をですか?」
「あ、いや、それについては後でゆっくり話そう」
タクシーは直ぐにホテルに着いた。田中と安川部長はロビーで落ち合う時間を決めると、スイートの部屋に別々にチェックインした。田中にとっても安川にとっても二週間ぶりに訪れる孤独の時間だった。
田中は部屋に入ると荷物を放り出し、広くて豪華な、しかし落ちついた調度品の置かれた部屋の大きすぎるベッドの上に大の字になって倒れ込んだ。窓からは、暮れなずむ夕焼けの中に、ヴィクトリア湾の向こうの香港島のビル群に灯がともり始めているのが見えた。
ホッとする気持ちと同時に、一抹の淋しさが胸にこみ上げてきて、田中は麻子のことを考えた。思えば、フランスにいる間中、一度も連絡していなかった。どうしているのだろうか。「声だけでもいいから聞かせてね」と言われていたのに、電話の一本もしていない。もっとも、それどころではなかったこともあるのだが。
「一郎ちゃん、あんたは本当にええかげんなんやから」という非難がましい麻子の声と「一郎ちゃん、ちゃんと帰って来るんやで」という、出発前に聞いた麻子の声とが田中の頭の中で交差した。
枕元の電話が鳴った。
「ウタマーロ、元気ですか?」
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「マリアンヌやないか、どないしたんや?」
「何でもありません。無事着いたかどうか心配だったものですから」
「ああ、そうかいな。大丈夫や。元気やで。今着いたところやがな。やっさんも元気やで」
「そうですか。良かった。私、ジャポン、行くのやめてホンコン行きます」
「ああ、そうか。ちゃんと学校終わったらな、いつでも来たらええがな」
「本当ですか!学校卒業したらね。きっとですよ」
「うん。一生懸命勉強せなあかんで、それまでは」
「メルシ、ウタマーロ、モナムール」
受話器を置きながら、田中は別れた時のマリアンヌの愛くるしい顔を思った。そして、ホテルの到着時間にピッタリ電話してくる真剣さを可愛いと思った。青春の頃の一途で制止する事の出来ない感情の奔流に身をまかせることが出来るのがうらやましいと思った。今が一番いいときなのだ。マリアンヌの人生の中で。
また電話が鳴った。
「田中さんお願いします」
「はい、田中ですが」
「一郎ちゃんやの?」
「マ、ママ?」
「ほんまにあんたいう人は薄情者!電話くらいしたらどうやの!どれだけ心配したか分かってるの!」
「す、すんません。忙しかったんですわ」
「アホーッ、どんだけ忙しいても電話すんのにどんだけ時間かかる言うんよ!」
「すんません」
「謝ってばっかりでいいと思てんの!」
「色々ご心配おかけしまして・・・」
「何他人行儀なこと言うてるの、あんたは」
「今、ホテルに着いたとこなんですわ」
「分かってるわ、そんなこと。分かってるから電話したんやないの。今から直ぐそっち行くから待っといて」
「そっち行くからて、ここ日本と・・・・」
電話は一方的に切れていた。
マリアンヌの声を聞いて感傷にひたる間もなく麻子からの電話が田中を日本の現実に引き戻した。
また電話が鳴った。
「田中主任お願いします」
「田中ですが」
「大林です。主任、お疲れさまでした」
「よう、大林君。元気でやってたか」
「はい、いろいろ大変でしたけど何とか」
「そうか。もうすぐ帰るさかいな」
「ええ、この度はおめでとうございます」
「何がや?」
「詳しいことは後で。じゃ、お待ちしてます」
「あっ、おい!」
ドアのチャイムが鳴った。田中は受話器を置き、起き上がってドアを開けに立って行った。ドアを開けると、そこには着物姿の麻子が立っていた。
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「あ、麻子ママ」
「一郎ちゃん」
麻子の顔を見た途端、田中の心の中に忘れていた懐かしさが突然こみ上げてきた。なぜここに麻子がいるのか、という疑問を差し挟む余地もないほどの思いが心に満ち、田中は麻子を抱き寄せた。麻子は背伸びしながら田中の腰に手を回し頬を合わせた。
「淋しかった」
「すんません」
田中は、麻子の顔を自分の顔から離し、両手で顔を挟んで確かめるように目を口を鼻を見た。何も変わっていない。大きな目とツンとすました鼻と肉感的な挑発するような唇が小さな顔の中に収まっている。
額にキスし、両目にキスし、鼻の頭にキスし、耳にキスし、唇にキスした。キスしながら右手は首筋をさすり、左手は麻子の胸をさすろうと着物の胸元をさぐった。
「あっち行こ」
麻子にうながされて窓際のベッドの方に歩きだしながら、田中の手は麻子の帯に手を掛けていた。麻子の手も田中のズボンのベルトに掛かっている。
ベッドの上に倒れ込むようにしてたどり着いたときには、二人はすでに何も身に付けていなかった。 麻子がアップにしていた髪を下ろすと、ベッドの上にそれは黒い扇のように広がって、麻子の顔の下に敷きつめられた。
目を下に転じると、小さな扇がポツンと取り残されたように丘の上に置かれていた。
田中はベッドの上で反転すると、遮二無二その扇の要にむしゃぶりついた。
麻子のそれはいつもちょっぴり舌先のように顔を覗かせている。ピンク色の小さな可愛い肉の芽に田中は唇を押し当て、その下の骨の固さを確かめるように舌先でこするように舐め上げた。
一瞬、麻子が呻き、瞬間、海の匂いが田中の鼻孔に届いた。
田中は顔を麻子の両脚の間に埋めるようにしながら、その匂いの源を唇で探った。軽い塩味と海の匂いを田中は胸一杯に吸い込み、麻子の両脚を抱きしめた。
麻子は田中の物を口一杯に頬張りながら、その下に付いている物を両手で握りしめ、交互に力を入れては絞り出すように強く引っ張った。
田中が舌先を尖らせ、麻子の中に挿入しようとすると、麻子は太股で田中の顔を挟み、田中の物の先端に舌先を転がし、歯で軽く噛みながら舌先を裏側に移動して隆起した部分に沿って左右に動かした。
「ママ、僕あかんわ」
その声と同時に田中は鼻と口を麻子の中に埋め、体を硬直させて一際強く麻子の尻を自分の方に引き寄せた。
麻子の両脚をゆっくりと解きほぐしていくと、窓外の鮮やかに輝く夜景が田中の視界に入ってきた。
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「すんません。何や興奮してしもて」
「ええんよ、またすぐできるがな」
「ママの匂いかいでたら堪らんようなってしもて」
汗の滲んだ麻子の乳房を口に含み、田中は背中に右手を回し、左手で麻子の髪をかき上げながら下半身は麻子の両脚の間に割って入った。
田中の物は萎えもせずに麻子の中に収まろうとしている。麻子はそれを両脚を大きく広げて迎え入れようとしている。
田中は優しくゆっくりと入って行きながら、ふと「やっぱ、ヴァン・ド・ペイやな」と思った。思うと同時に麻子の耳元で言っていた。
「えっ?何それ」
「地酒のことなんやけど、ママは最高や、これや、これしかないわ僕には。美味しい地酒が一番や」
「色々飲んでみて分かったいうことなん?」
「ママは海の匂いがするんや。ラ・メールや」
「あんたは何やチーズ臭いで。フランス料理の食べすぎと違うか」
麻子のこれ以上の追及から逃れるために田中は両手で体を起こすと、腰の動きを速めた。大きな麻子の目が薄目になり、やがてピッタリと合わさり、眉の間に縦にシワが寄った。
背中の窪みにも乳房の間にも腹にも汗が吹き出している。汗は二人の間で擦れあっては二人だけの匂いをたて始めた。
麻子が田中の尻に爪を立て、自分の尻を持ち上げるように田中に押しつけた。麻子の腹には腹筋が浮かび、両脚が突っ張っている。
硬直した麻子の体が軟体動物のように変わるその瞬間、田中は麻子の体の中に吸い込まれるような感触とともに、痙攣しながら愛を充填していった。
しばらく二人は抱き合ったまま横になっていた。静寂があった。
その静寂を破ったのは一本の電話だった。田中が電話に手を伸ばすと麻子がそれを押さえた。
「やっさんなんや、きっと」
「うーん、こないしとこ、もうちょっと」
「もう、約束の時間なんや」
「もうちょっと、な」
二人でシャワーを浴びながら、田中と麻子は初めて見るものを見るような目つきでお互いの体を探り合った。シャワーの下でキスしながら、
「そうや、ママ、どないしてここにおるんですか」
「一郎ちゃんがここにおるいうからやないの」
「誰がそんなことを」
「女の人やったで。名前は、聞いてないんよ」
「うちの会社の大林ですか」
「さぁ、とにかく二日前に聞いたんや」
ロビーに下りると安川部長がドレスの女性と一緒にソファに座って待っていた。田中があっけに取られた顔で安川の顔を見ると二人は立ち上がった。
「ああ、紹介するよ。僕のワイフだ」
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「やっさん、一体どないなってますんや?」
挨拶を終え、ソファに座りなおした田中が切り出した。
「いや、済まない。ここまでムッシューが手回しがいいとは思わなかったんだが、実は田中君に言っておかなければならないことがあるんだ」
「そうでしょうな。何やチンプンカンプンですわ」
「実は、ムッシューとの契約事項にはおまけが付いていたんだ」
「おまけですか」
「ああ。おまけと言っちゃ、君には失礼なんだが」
「何ですの一体?」
「実は、合弁会社をわが社とムッシューで作ることになったんだ。それもここ香港で」
「へぇー、そらまぁ、お互いに資本参加するいうことでしたわな」
「で、その条件なんだが僕と君にその会社を任せるということだったんだ」
「そんなアホな。そんなん初耳でっせ僕」
「いや、済まない。私もこんなにことが早く進むとは思ってもなかったんだ。私も実はついさっきワイフから聞いたところなんだが、専務と副社長も来られているらしいんだ」
「へ?何しにですか」
「現地打ち合わせだ」
「現地打ち合わせて、何をですか。出張報告も済んでませんがな」
「連絡は全てムッシューから会社に入っている。しかも、すでに事務所も借りてあるらしい」
「それで、会社はOKしたんですか」
「そういうことだ」
「そんなアホな。僕、それ聞くの初めてですがな」
「私もそうなんだ。実は」
「それ、話が違いすぎますがな。帰りに香港寄って中華とワインの相性を研究するいう予定やなかったんですか。それで切符くれたんやないんですか」
「私たちが飛行機に乗ってる間に事情が変わったらしいんだ。予定を早めるようにムッシューから連絡があったらしいんだ」
「そんなこと、専務と副社長で決められますんか」
「社長だ。ムッシューは社長と直接交渉したんだ」
「日本の商習慣は無視でっか」
「いや、この決定は社長の積極的な意思だということだ。知ってのとおり、わが社はムッシューの父上の時代から取引がある。わが社の悲願は本物のワインの普及にある。ムッシューは自分のシャトーを持ってまで本物のワインを普及させたがっている」
「両社の思惑が一致したと」
「ああ。そのとおり。だが、ムッシューの狙っていた市場は日本だけではなかった。アジア全域だ。つまり、アジア全域を市場として組み込むには、その中心に会社を置かなければならない」
「それが香港やいうわけですか」
「そのとおり。一九九七年の返還前に会社を作り、ワインの十字軍を始めるつもりなんだよ、彼は」

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