続・夜のソムリエ 第三話 マリアージュ
3-1
翌日、店は前日の喧燥とは打って変わって静かなスタートを迎えた。 喫茶店の従業員が帰っていき、準備万端整えて意気込み新たに望んだ田中だったが、二日目にしてその現実に直面することになった。
午後七時を回っても、階段を降りてくる客の姿はなく、ぽつんと取り残されたように二人だけになると店内の静けさが際立って、ブルゴーニュワインを置くということで、フランスの雰囲気を演出すべく選曲したシャンソンの音がむなしく響いているだけだった。
「座っとってもええで」
「いえ、大丈夫です」
入り口に向かって立っている仁美ちゃんに声を掛ける。
昨夜手伝ってくれた二人とともに三人で入れ替わりで来てくれるように喫茶店のマネージャーがローテーションを組んでくれたのだ。仁美ちゃんは、今夜が初めての出勤になる。 そのせいか幾分緊張の面持ちで、田中の方を見やることなくいささか落ち着かない風情である。
田中は田中で音楽に耳を傾けながらも、仁美ちゃんの素振りを盗み見ては話し掛けるタイミングをはかっていた。 客が入ってくればすぐに解消してしまうのだが、しかし一種気まずさに似た雰囲気というものが、客の入る前の店内にはあるのだということに田中はそのとき気づいたのだが、まだ田中にはそれを解消する方法が分かっていなかった。
「仁美ちゃんは昼はどないしてるんや?」
「えっ?」
「学生やったんやったかなー」
「はい、大学生です」
「女子大かいな」
「いえ、音大です」
「へー、音楽やってるんか。楽器は?」
「いえ、声楽です」
「はー、歌かいな。ほな、シャンソンなんか歌えるんやろな」
「いえ、クラシックですから」
「はー」
何とも取りつく島もない仁美ちゃんの返答に次の質問を捜しながら、何とも間抜けな言葉で会話の終わりをしめくくることになってしまった。
「リラックスしていこな」 緊張をほぐすつもりで言ったことなのだが、仁美ちゃんは完全に田中に背中を見せて、入り口の方に顔を向けて佇んだまま身じろぎもしないのだった。
3-2
時間ばかりが過ぎて行き、その時間をやり過ごすのを耐えるという経験を全くといっていいほどしたことがなかった田中にとって、客のいない店というのがこれほどの苦痛になるとは思ってもみないことだった。
時計は九時を回わり、やがて十時に差し掛かろうとしている。
「仁美ちゃん、もう、帰るか?」
「駄目ですよ、時間までちゃんと開けとかなきゃ!」
余りの手持ちぶさたにふと口をついて出た言葉だったが、学生の仁美にさとされるありさまで、田中はそわそわと落ち着かない。有線で流れているシャンソンが宝塚歌劇のテーマソング、「菫の花咲く頃」をフランス語で流し始めた。
と、入り口のドアが開き、それに合わせて歌いながら入ってきたのは、長身で細身、髪を肩まで垂らした日本人形のような顔付きのワンピースの女性と、同じく長身だが茶髪のショートヘアにパンツルックのボーイッシュな女性の二人連れだった。
「い、いらっしゃいませ」
「今晩は。わたしたちのテーマソングじゃない、これ」
「へ?」
「えー!お二人とも宝塚なんですかー!」
田中の間の抜けた対応を打ち消すように仁美ちゃんがフォローに入る。
「いえ、現役じゃないんですけど、二人ともOGなの」
髪の長い方が仁美に答える。
「すっごーい!わたし、憧れなんです、宝塚って!」
「どちらに座らせていただいたらいいのかしら?」
髪の短い方が催促する口調で田中に問い掛ける。
「あっ、すみません、お好きなところへどうぞ」
田中が慌てて目の前のカウンターを指しながら答えると、二人は田中の正面に並んで腰を掛けた。二人ともじっと田中から視線を外そうとしない。そうしておいて、
「ワイン、いただけるかしら」
二人同時にキラキラと瞳を輝かせて田中の目を見つめて注文する。二人の声は見事にハーモニーを奏で、田中は、その声に一瞬唖然として見つめ返した。
3-3
「あっ、ソプラノとアルトだー!」
ハーモニーを奏でる注文の声に反応したのは仁美ちゃんの方で、田中は、うわずった声で、
「う、うちは、ワインしかないんですわ」
と、これまた間抜けな返事を返す。
「ですから美味しいワインをくださいな」
長い髪の方が、念を押す口調で田中に注文する。
「ワインは食中酒ですから、食べ物とピッタリ合ったときに相乗効果が生まれます。これをマリアージュいうんですわ。ですから、赤、白、どちらかいうてくれはりましたら、それに合うたオードブルをお出ししよう思います」
「へーっ、面白そうね。じゃわたしは白」
「わたしは赤」
「最初は、白からというのはどうでしょう?スッとする思いますし、口を洗う意味からもまず白ワインというのがいいと思いますけど」
「ふ~ん、そうなんだ。じゃー、1杯だけ白ワインにしようかしら」 「白ワインも赤ワインも、全部グラスで、500円、1000円、1500円、2000円、3000円とありますけど、どないいたしましょ?」
「お任せしますわ」
また、二人の声がハーモニーを奏でる。
「オードブルとマリアージュするワインを選んでくださいな」
髪の短い方が田中の目を覗き込みながらそう言った。 オードブルとワインのマリアージュと大きく出はしたが、そのとき田中の店にあったもので、白ワインと合うものと言えば、スモーク・サーモン、乾燥イチジク、生ハムのフルーツ添え、ポークのアップルソースくらいなもので、選択に時間も頭もつかう必要はなかった。
白ワインは500円のものを1杯ずつ出し、スモーク・サーモンと、生ハムのイチジク添えを出した。
「これでマリアージュっていうのが起こるわけ?」
髪の長い方が聞いてくる。
「ええ、食べ物を口に入れて噛む。そして同時にワインを飲む、そして一緒に噛んで飲み込むときに香りを鼻に抜くようにしてみてください」
3-4
「むずかしいのね」
「いえ、慣れたら簡単ですわ」
二人は揃って小首をかしげるようにして、それぞれのオードブルを口に入れ、田中に言われたように鼻から息を大きくはきだすと、顔を見合わせて同時に、
「すごーい!」
と歓声をあげ、田中の方を向いてウィンクを送ってきた。
「感じましたか?感度のいい人は感じやすいんですわ」
「じゃ、わたしたちは感度いいってわけね」
「そういうことですわ。もうバッチリですわ。今のが白ワインのマリアージュ。赤ワインのはまた違うんですわ」
「おもしろーい!」
同時にまた二人がハーモニーを奏でたところにドアが開いて客が入ってきた。
田中は振り向きざま、相手の顔を見て固まってしまった。
「ハーイ!ウタマーロ!」
「マ、マリマンヌ!」
マリアンヌは駆け寄ってくるとカウンターの中に入ってきて田中に飛びつき田中の口にキスした。
「久しぶりです、ウタマーロ」
「ちょ、ちょっと待て、マリアンヌ!ど、どないしたんや!い、いつ来たんや!」
「今、着いたとこです。空港からタクシーで真っ直ぐ来ました」
「これ、カトリーヌとミッシェルとわたしからの贈り物です。乾杯しましょう!」
「ちょ、ちょっと待て。お客さんがおるやないか、ここは店なんや」
田中の言うことなどそっちのけで、マリアンヌは手土産のアルマニャックを開け、グラスに注ぎ乾杯の準備に取りかかる。
カウンターに並べた五つのグラスのうち二つを取り上げると、一つを田中に持たせ自分のグラスをそれに合わせた。グラスはチーンとクリスタル独特の音を立て、マリアンヌは一気にそのブランデーを飲み干した。
「さー、皆で乾杯しましょう!」
マリアンヌは、自分のグラスにもう一度なみなみとブランデーを注ぐと、カウンター越しに二人の客と仁美ちゃんにグラスを渡した。
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仁美ちゃんと二人の女性客はあっけにとられたように田中の方を見ている。
言い訳を考える時間はなかった。
「いや、この人はフランス研修のときにアシスタントを務めてくれたマリアンヌいうんや。お二人もどうぞ。仁美ちゃん、君も飲めるんやったら乾杯しょ」
「かんぱーい!」
突然の事態をどう理解しているのか、やたらと威勢のいい二人のハーモニーに先導されるように五人はグラスを合わせることになったのである。
田中が出張を終え、フランスを立つときに田中の首にすがって泣いていたときの可憐さに変わって、三年の歳月は彼女にセクシーと呼ぶに相応しい雰囲気を与えていた。
マリアンヌが微笑むと、パリジェンヌのエスプリが店内を満たした。マリアンヌは田中を前にして光り輝いていた。
有線が、また「菫の花咲く頃」を流し始めた。 マリアンヌがカウンターから出て、フランス語で歌い始める。それを聞いた二人がマリアンヌを両側から挟み、日本語でハーモニーを奏でる。
やがて三人は中二階の方に向かって上って行き、そこをステージ代わりにして田中の方を向いて歌い、エンディングになると、三人で腕を組んで階段を降りてきた。
そして、カウンターの前まで来ると、手をつないで輪になって踊り出した。マリアンヌが歌っているのは「アヴィニョンの橋の上で」という曲だ。
二人の女性客も一緒に歌っている。 マリアンヌがカウンターを回り田中を連れ出し、仁美ちゃんの手を取り、踊りの輪の中に引き入れる。
五人はマリアンヌの歌に唱和しながら、カウンターの前でぐるぐる輪になって踊り始めた。やがてリズムがだんだん速くなる。五人はそれに合わせて回るスピードを上げていく。
歌がますます速くなる。踊りの輪もますます速くなり、歌がもっと速くなって五人の踊りの輪がちぎれてしまうと全員がその場に仰向けになって倒れ込んだ。
誰からともなく笑いがもれた。それにつられてまた誰かが笑い出し、やがて全員で笑いの合唱になった。 マリアンヌが堰をきったように田中にむしゃぶりついてキスしてきたとき、入り口のドアが開いて人の気配がした。

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